後五年も子がなかったのに、こんど初めて妊娠したのですから、普通ならば非常に喜ぶべきでありますが、私は少しも嬉しいとは思いませんでした。それのみならず、にくい良人の胤《たね》であるかと思うと、お腹の子までが自分の仇敵《かたき》のように思われてなりません。ですから妊娠だと気づきましたとき、人工流産を施そうかとさえ思いましたが、彼此するうちに私は肺結核にかかったので御座います。そうして私を診察してくれた医師は母体に危険があるから、妊娠を中絶した方がよいと申しました。すると、どうでしょう。人工流産をしようとした心は忽ち去って、却って、どこまでも無事に生まねばならぬと決心したので御座います。と、申しますのは、一旦結核にかかった以上たとえ人工流産を行っても、恐らく再び健康になることはむずかしいであろう。そうすれば、なお更良人に邪魔物扱いにされて、苦しい厭《いや》な思いをしなければなるまい。健康であれば、思い切ったことも出来るけれど、病気になってはもはや世間も相手にはしてくれないであろう。それくらいならば、いっそお腹の子を無事に生み落して、自分が死んだ方がよいと思ったからで御座います」
夫人はここまで語ってホッと一息つきました。私は夫人がいまに何か怖ろしいことを言い出すにちがいないと予想して、全身の神経を緊張させて夫人の話にきき入りました。
「しかし、先生、私がお腹の子を無事に生み落したいと思ったのは、お腹の子が可愛いからではありません。むしろ子供を無事に生んで、良人に一生涯迷惑をかけてやろうという心が主だったので御座います。ところが、良人は私が床に就きますと、それをよいこと幸にして、こうして、私を本邸から離れた別館に移して、早く死ねかしの態度を取り始めました。そこで私は何とかして、もっと、もっと、良人を苦しめてやる方法はないものかと考えました。然し、身重な病人に何が出来ましょう。私は考えに考えました。そうしてその結果、やはり、このお腹の子によって、復讐の一念を遂げ得ることを知ったので御座います」
夫人の眼はその時、獲物を見つけた猫の眼のように、ぎろりと輝きました。私は全身に一種の悪寒を感じて、思わず眼をそらせました。
「先生」と、夫人は力強く呼びました。そうして、その細い右の腕をのばして、ちょうど、自分の真正面にあたる壁の上にかけてある額を指さしました。それまで私は気がつき
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