る。実際ヂュパンは thinking machine である。「マリー・ロージェー事件」を読んでいると、精巧な機械が、整然として運動し、以《もっ》てその仕事を行ってゆく姿を見ているようである。それは丁度、むずかしい数学の問題が漸次に解かれて行く時のような喜びを読者に与えるけれど、喜びはただそれだけに過ぎない。即ち読者は事件の解決さるるのを喜ぶだけであって、解決したその人に対しては、さほどの親しさ、なつかしさを持つことが出来ないのである。
 しかしヂュパン自身は、却《かえ》って他人から親しまれることを欲していないようである。すべて、異常に知力の発達した人は、俗人の相手になることを頗《すこぶ》る嫌う。ヂュパンは夜でなくては散歩に出ない。又、家に居るときは、窓に鎧戸を下して、人工的の光の中で瞑想思考する癖がある。人間を厭《いと》うばかりでなく、太陽の光をさえ避けようとしている。ヂュパンばかりでなく、シャーロック・ホームズも同じような性質を持っていて何となく人を寄せつけまいとする態度が明かに見られる。が、私は、それだからヂュパンやホームズが嫌《きらい》であるというのではない。どちらかというと私
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