なっているのだ。駈落ちでないとしても、それは自分だけしか知らない或る目的のためだ。そのためには、どうしても、はたから邪魔されたくない――あとから追っかけて来ても、それまでに行方をくらましておけるだけの時間の余裕をこさえておかなくちゃならない――だから自分はドローム街の伯母さん(ブリーカー街の従姉)のとこへ行って一日じゅう遊んで来るってみんなのものに告げておくことにする――サン・チュースターシュ(ペイン)には、暗くなるまで迎えに来ちゃいけないって言っとく――そうすれば、できるだけ長い間、誰にも疑われず、誰にも心配かけずに家を留守に出来るというものだ。時間の余裕をこしらえるにはそれが一番いい方法だ。サン・チュースターシュに暗くなってから迎いに来て下さいって言っておけば、あの人はきっとそれまでに来る気遣いはない。だけど、迎いに来てくれとも何とも言わずにおけば、自分の逃げる時間の余裕が減って来る勘定だ。何故かっていうと、皆んなの者は自分がもっと早く帰ると思って、自分の帰りが少しでもおくれると心配するからだ……」
 マリーの精神分析はこのように精細を極めているけれども、これによって、殺害の秘密は少しも明かにされてはいないのである。ことに、「だけど、自分はもう二度と家へは帰らないつもりだから――或はここ何週間かは家へ帰らないつもりだから――或はまた人に言えない或る用事をすます迄は帰らないつもりだから、自分にとっては、たっぷり時間の余裕をこさえることが何より肝腎なんだ」という、言葉に至っては、彼女が死体となってあらわれるに至る事情を説明するというよりも、むしろ、まだ何処かに生きておって、死体は彼女でないと説明するのに都合がいいくらいである。もっともこれは犯人が一人だとの推定を裏書きするための議論であるから已むを得ないことでもあろう。
 第一回の失踪を第二回の失踪即ち殺害と関係あるものと考えたポオの推定は、犯罪学的に見て頗る当を得ているのである。ところがポオは第一回の失踪と第二回の失踪との間の時日を夕刊新聞六月二十三日の記事(小説参照)によって、約三年半として推定を行っている。ポオは物語の始めに約五ヶ月と書いて、後に三年半として推定を行っているのは変である。マリーは煙草店に一年半ばかりしか居なかったので、三ヶ月半の書き違いかとも思えるけれど、「第一のたしかにわかっている駈落ちと、第二回目の仮定の駈落ちとの間に経過した時間は、アメリカの艦隊の一般の巡航期間よりも数ヶ月多いだけだということだ」と書いているところを見ると、やはり三年半と見てのことであるらしい。して見ると海軍士官をマリーの恋人と見るのは頗るおかしく、従って色の浅黒いことや、帽子のリボンの「水兵結び」なども、事件の真相から眺めて見れば一種のこじつけ[#「こじつけ」に傍点]になって来るのである。もっとも、海軍士官云々の説は六月二十四日のメルキュール紙の「昨夕発行の一夕刊新聞は、マリー嬢が、以前に合点のゆかぬ失踪をしたことがある事件に言及しているが、彼女が、ル・ブラン氏の香料店にいなくなった一週間、彼女が若い海軍士官と一しょにいたのであるということは周知の事実である。この海軍士官は有名な放蕩者であった。幸にして、二人の間に仲たがいが起ったために、マリーは帰るようになったのだと想像されている」という記事を根拠としたものであろうけれど、夕刊新聞には、第一回の失踪の原因について、マリーも母親も、田舎の友達のところへ遊びに行ったのだといっているに反し、メルキュール紙が、「海軍士官と一しょにいたことは周知の事実である」と書いているのも少々おかしいように思われる。海軍士官のことがもし周知であるならば、メリーの母親の知らぬ訳はなく、従って母親を訊問した警察の記録には載っている筈で、それを調べた筈のバーンスの著書には当然書かれていなければならぬのに、その記述はないのである。
 最後に、メリーが何処で殺されたかの問題も、知れている事実だけから推定してこれを解決することは頗る困難である。しかし、メリーの死体がハドソン河から発見されたことは、ハドソン河の近くで殺害の行われたことを想像するに難くはない。現今ならばメリーの衣服に着いている塵埃や草の葉の破片などから、それを顕微鏡的に検査することによって兇行の場所を推定することが出来るであろうけれども、当時は常識的に判断するより他はなかった。もしウィーハウケン(小説ではルール関門)の近くで認められたという女がメリーであったならば、兇行はやはりその附近で行われたものとするのが、常識的に見て当然のことである。
 そこで今度はメリーが一人の男に殺されたのか又は一団の悪漢たちに殺されたかという問題が起って来る。何となればメリーは六人のものと一しょだったという見証と、色の浅黒い男と一しょだったという見証とがあったからである。無論前にも述べたごとく、これらの見証は頗る怪しいものであるが、仮りにそれを是認するならば、ポオの推定したように一人に殺されたとした方が理屈に合うようである。しかし当時の人達は格闘した形跡の発見を基として一団の人達に殺されたと信ずるものが多かったのである。ポオの文章の中に、
「まず手初めに検屍に立ちあった外科医の検案なるものが出鱈目《でたらめ》なものだということをちょっと言っておこう。それにはただこれだけのことを言っておけばよいのだ。あの外科医が下手人の数について発表している推定なるものが、パリーの第一流の解剖学者たちによって、不当な、全然根拠のないものだとして一笑に附せられているということをね」
 とあるところを見ると、検屍に立ちあった医師までが犯人の多数説を建てたと見える。しかし、このことも、恐らく前に述べたようにポオの空想から生れた「事実」であろうと思われる。
 そこで次に、ポオはこの世間の説を反駁するために、
「まあ、格闘の形跡なるものをよく考えて見よう。一体この形跡は何を証明するというんだと僕は訊ねるね。それは一団の悪漢のしわざであるということを証明しているのだが、むしろ、これは、一団の悪漢のしわざでないということを証明してるじゃないか。いいかね、相手はか弱い、全く抵抗力のない小娘だぜ。こんな小娘と、想像されているような悪漢の一団との間にどんな格闘が行われ得るかね。……二三の荒くれ男がだまって鷲づかみにしてしまやあ、それっきりだろうじゃないか。……これに反して、兇行者がただ一人であると想像すれば、その場合にのみはじめて明白な形跡をのこすような、はげしい格闘の行われたことが理解できるのだよ。次に、僕は例の遺留品が、そもそも発見された場所におき忘れてあったと言う事実そのことに疑いがあるということを言っといたが、こんな犯罪の証拠が、偶然にある場所に遺棄してあるということは、殆んど有り得ないことのように思われるね。……僕の今言ってるのは殺された娘の名前入りのハンカチのことなんだ。たとい、これが偶然の手落ちであるとしても、それは徒党を組んだ悪漢の手落ちじゃないね。一人の人間の偶然の手落ちだとしか想像できないね、いいかね、或る一人の兇漢が殺害を犯したとする。彼はたった一人で死人の亡霊と向いあってるのだ。……彼はぞっとする。……けれども死体をどうにか始末する必要があるのだ。彼は他の証拠物はうっちゃっておいて死体を河ぶちまで運んで行く。――ところが一生懸命に骨を折って死体を河まで運んで行く間に、心の中で恐怖は益々募って来る。……どんな結果になろうとも、彼は断じて引き返せないのだ。彼のただ一つの考はすぐに逃げ出すことだ。……」
 と書いて犯人の一人説を主張し、併せてその犯人の行動をも推定しているのである。そうしてなお、死体の上衣《うわぎ》から、幅一|呎《フィート》ばかりの布片《きれ》が裾から腰の辺まで裂いて、腰のまわりにぐるぐると三重に巻きつけて、背部でちょっと結んでとめてあったことを、犯人が一人であったために死体を運ぶための把持とされた証拠だと述べているのである。
 しかし、ここに於て、ポオは、実は一つの論理的矛盾に陥っているのである。何となれば彼は、叢林の中に残された品物が三四週間も発見されずにあるということは考えられないから、それらの品物は、兇行の現場からわきへ注意をそらそうという目的で、わざと叢林の中へ置かれたものだろうと推定して置きながら、(小説参照)前記の文中には、その場所を兇行の現場と認め、なお、品物は犯人が偶然残して置いたのであるように推定しているからである。このことは昨年の三月二十七日発行の「ゼ・デテクチヴ・マガジン」にボドキン判事によって指摘され、同氏は、この自家撞着があるために、この作品に対する期待を打ち壊されてしまったと言っている。
 なお又、ウエルス女史が指摘したように、裾から腰の辺まで裂かれた布片《きれ》が、マリーの腰のまわりを三重に巻くということも彼の論理的の矛盾ということが出来るのであって、実際に死体を発見した人たちが、死体には紐も縄も見られなかったと証言したところを見ると、このこともポオの空想から生み出された「事実」といってよいかも知れない。
 いずれにしても、かような論理的の矛盾――ボドキン判事やウエルス女史の指摘した点及び、第一回失踪と第二回失踪との間の時日に関する点などが――この小説に発見されるということは、「マリー・ロオジェ事件」が、必ずしもメリー・ロオジャース事件を説明するもので無いと断言し得るのであって、ポオが推理の材料とした「事実」がまた必ずしも真実でないことを想像し得るのである。
 して見ると、ポオがこの物語の一八五〇年版に附加した脚註(この文の最初に掲げた)はデフォーがしばしば用いた手段と同じように、読者の感興を深からしめるための方策に過ぎないといっても差支ないと思われる。
 以上のような訳で、メリー・ロオジャース殺害事件なるものは、厳密に言えば犯人が如何なる種類の人間であったかということのみならず、何処で殺害が行われたかということさえわからぬ謎の事件なのである。

     四、探偵小説としての「マリー・ロオジェ事件」

 マリー・ロオジェ事件は、もとより探偵小説であって事件の記録ではないが、その中に前節に述べたような論理的矛盾のあるということは、探偵小説としても幾分の感興が薄らぐ訳である。然《しか》るに、この小説を読んでいると、ヂュパンの明快な議論と、その歯切れのよい言葉に魅せられて、どうかすると、これらの論理的矛盾に気がつかないのは、偏《ひとえ》にポオの筆の偉大なことを裏書きするものであるといってよい。実際、探偵小説を愛好される読者は、恐らくこの小説を読んで、多大の興味を覚えられるにちがいないと思う。
 ポオがこの物語を綴るに至った動機が何であるかはもとより知る由もないが、警察の無能に憤慨して筆を取ったというよりも、この事件を種として、ヂュパンの性格を一層はっきりせしめ、ポオ自身の推理力を遺憾なく発揮して見ようと企てたのであろうと思われる。さればこそ、既に述べたように死体の個体鑑別に殆んど物語の三分の一を費しているのである。そうしてその個体鑑別の精細な点は実に驚嘆に値する。「まあもう一度、ボオヴェー君の死体鑑別に関する部分の議論をよく読んで見給え……」から以下の文章は、個体鑑別に就て書かれた従来のどの文章にも劣らぬ名文であると思う。
 この文章に魅せられた読者は更に進んで、犯人及び殺害の場所に関する推理に導かれる。「今さしあたっての問題としては、吾々はこの悲劇の内部の問題には触れぬことにして、事件の外廓に専ら注意を集中しよう。こんな問題の場合には傍系的といおうか、附随的といおうか、直接事件に関係のない事柄を全く無視するために、取調べに間違いが起ることがざらにあるもんだ。裁判所が、証拠や議論を、外見上関係のある範囲に限定するのは悪い習慣だよ。だが、真理というものは、多く、いや大部分、ちょっと見たところでは無関係に見えるものの中にひそんでいるってことは、経験も証明しているし、ほんとうの哲学もきっと
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