るから、後がうるさい。一体細君はこゝへ何をしに来たのか。支倉と会う為だと考えるのが至当だろう。そうすると支倉はこゝに潜伏しているのか、それともこゝで妻と落合おうと云うのか、それとも細君は支倉に会う為でなく外の用でこゝへ来たのか、何にしてももう少し様子を見ねば分らない。支倉の這入る所か出て来る所を押えるのが一番好いが、こんな狭い往来で身体を隠す所がないので困る。流石の根岸も思案に暮れていた。
 思案に暮れながらふと教会の裏口に眼を見やると、二重廻しに身を包んだ怪しい人影が忍び寄るのが見えた。あっと云う間にすっと中へ消えて終った。根岸刑事は緊張した。彼はそっと裏口に近寄った。
 が、流石の根岸刑事も、彼が裏口に忍び寄った瞬間に曲者は家の中を素通りして、早くも表へ飛出したのには気がつかなかった。
 玄関の所で曲者は、後について来た静子を濁声《だみごえ》で叱った。
「馬鹿! 尾行《つけ》られて来たじゃないか。刑事らしい奴が裏口の方にいる。仕方がない、俺は直ぐ行く。実印を浅田に渡せ。いいか分ったか」
「あ、あなた、もう逃げるのは止《よ》して下さい」
 静子はあわてゝ彼の袖を引張ったが、曲者は袖を振払って表へ飛出すと、折柄の夕暗にまぎれていずくともなく消え失せた。


          素人探偵

 麻布一之橋から白金台の方へ這入って行く、細々《こま/″\》とした店舗《みせ》が目白押しに軒を並べている狭苦しい通りから、少し横丁に這入った三光町の一角に、町相応の古ぼけた写真館が建っていた。
 余寒の氷が去りやらぬ二月半の夜更け、空はカラリと晴れて蒼白い星が所在なげに瞬いていたが、物蔭は一寸先も見えない闇だった。写真館の表は軍装いかめしい将軍の大型の写真と、数年前に流行《はや》った服装の芸者らしい写真と、その外に二、三枚の写真を飾った埃ぽい飾窓に、申訳につけられた暗い電燈が、ボンヤリ入口を照らしていた。
 その入口の浅田写真館とかゝれた看板を見上げながら、一人の怪しげな男が暫くじっと佇んでいたが、中へ這入りもせず、そっと横の路次から手探りで裏口の方へ廻って行った。
 裏口へ廻った怪しい男は木戸から洩れる燈火《あかり》を頼りに、そっと忍寄って、コツ/\と戸を叩き出した。
 さっと一条の白光線が滝のように流れて、開いた木戸から一人の男が飛出した。
 木戸が再び閉ると一瞬照し出されたゴタ/\したみすぼらしい裏口の光景は消えて、四隣は又元の真の闇になった。
「大丈夫かい」
 外から木戸を叩いた男が低声《こゞえ》で云った。
「大丈夫です。もう寝ました」
 中から出て来た男が囁いた。
「何か手懸りが見つかったかね」
「大した事もありませんが、こゝの主人は此頃時々公証役場へ出入しますよ。多分支倉に頼まれたのだろうと思います」
「公証人の名は分らないかい」
「神田大五郎とか云うのです」
「神田なら可成有名な公証人だ」
「それからね、石子さん」
 中から出て来た男は呼びかけた。青年らしい声音《こわね》である。
「松下一郎と云う男と盛に手紙の往復があるのです」
「松下一郎?」
「えゝ、私はね、どうもそれが支倉の変名じゃないかと思うのです。手蹟がね、例のそらお宅で見せて貰った脅迫状によく似ているのです」
「で、所は分らないのかい」
「分らないのです。むこうから来るのには所が書いてありませんし、こっちから出す奴はいつも浅田が自身で投函するらしいのです」
「ふん、そいつは怪しいな。岸本君、もう一度骨折頼むよ」
「宜しゅうございます。どうかして所を調べましょう」
「何しろね、対手は手剛《てごわ》いから気をつけなければならないよ。根岸でさえ手を焼いているのだから」
「承知しました。あなた方の方はどうなんです」
「さっぱり手懸りがないんだ」
 石子――読者諸君も既にお察しの通り、浅田写真館に忍び寄った曲者は石子刑事だった。中から出て来たのは即ち、岸本清一郎青年である――は口惜しそうに云った。
「いつでもヘマ許《ばか》りさ。荷物を担ぎ込んだ所を突き留て飛び込むと、本人がいる所か、ホンの荷物の中置所にしたに過ぎないのだ。そうやって我々の注意を他へ向けて細君に呼び出しをかけているんだからね。所がそいつを看破って、密会場所を突き止た根岸が亦、いつの間にやら彼に逃げられて、寒空に中野の教会の外で五時間も立たされたと云う始末なんだ」
 二人は尚もボソ/\と打合せをした後、そっと左右に別れたのであった。

「岸本、ちょっと」
 浅田写真館主は気むずかしい顔をして呼んだ。
「はい」
 岸本は彼の前に畏《かしこま》った。
「わしはちょっと出掛けるからね。この焼増の分と、それから之を台紙に張るんだ。ロールを旨くやらなければいかんぞ」
「はい、承知しました。今日の現像はどういたしましょう」

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