いや、現像は好い。未だ独りでやらせるには少し危い」
「大丈夫ですよ、先生」
岸本は美しい眉をきりっと揚げた。
「ハヽヽヽ」
浅田は猪口才《ちょこざい》なと云わんばかりに笑った。
「まあ止しとこう。現像はしくじられると取返しがつかんからな」
「そうですか」
岸本は不服そうに云った。
「おい、お篠」
浅田は妻を呼んだ。
「では出かけるよ」
「いってらっしゃい」
次の間からお篠は大きな声で答えた。
ブロマイドの焼付を終って暗室を出て、岸本はせっせと台紙に出来上っていた写真を貼りつけていると、お篠が傍へやって来た。
「岸本さん、精がでるね」
「駄目ですよ、おかみさん、どうも貼付が拙くって」
「何それで結構だよ」
「そうですか」
「岸本さん、主人が喧しくって嫌でしょう」
「そんな事ありませんよ」
「主人はどうも気むずかしやでね、それだから書生がいつかなくて困るの。岸本さんは長く辛抱して下さいね」
お篠は岸本の横顔を眼尻を下げてのぞき込みながら云った。
「えゝ、おかみさん、どうぞ長く置いて下さい」
「置いてあげますとも」
「先生はどこへ出かけられたのですか」
「どこだか、大方又|支倉《はせくら》の奥さんの所へでも行ったんだろう」
「え、支倉さん?」
「お前さん知ってるのかね」
「えゝ、私前にキリスト教信者だったもんですから、名前だけ知ってるのです」
「そうかい。支倉さんはそう云えば耶蘇だね」
「支倉さんの奥さんは中々偉いそうですね」
「何、偉いかどうだか分るもんか」
おかみは忽ち機嫌が悪くなった。
「御主人が留守だからって、主人を呼んじゃ相談ばかりしている。馬鹿にしてるじゃないか」
「支倉さんは留守なんですか」
「どこかへ逃げているんだよ」
「え、何か悪い事でもしたんですか」
「どうもそうらしいんだよ。あんな人に係り合ってゝは、末々きっと損をするに定《きま》っていると私は思うんだよ」
「へえ――、そんな悪い人ですか」
「人相が好くないんだよ。見るから悪相なの。尤も奥さん見たいに虫も殺さない顔をしていたって当にはならないけれど」
「そんなに悪い人相なんですか」
「鳥渡お待ち、写真があるから」
お篠はゴソ/\机の抽出を探していたが、やがて一袋の古い写真を取出した。
「どうだね。之がみんな支倉さんの分さ」
「大へんありますね」
「古くからの馴染だからね。之が支倉さんさ」
「成程恐い顔ですね。之が奥さんですか」
「そうだよ。そんなのが油断がならないのだよ」
眼の前の沢山の写真をいじくっていた岸本は、ふと一葉の写真に眼を落とすとあっと驚いた。
支倉一家の写真をいじくっているうちに、ふと一葉の写真に眼を落として、岸本はあっと驚いた。それは小林貞子の写真だった。
「どうしたの」
お篠は怪しんで聞いた。
「何、何でもないのです」
「おや、やっぱり若いのが好いと見えるね」
おかみは岸本の持ってる写真を見ると、ニヤリと笑いながら云った。
「そう云う訳じゃありません」
「お生憎さま、岸本さん、その娘はもう死んだよ」
「えっ、死んだんですって?」
岸本はギクリとした。
「大そう驚くね」
お篠はジロリと岸本を見ながら、
「確な訳じゃないが死んだろうと思うのさ。それは支倉さんの女中なんだよ」
「あゝ、女中さんですか」
「それがね、三年前に行方不明になって終《しま》ったのよ」
「へえ!」
「未だに分らないらしいが、まあ死んだんだろうね」
「そうですね、三年も行方が分らないとすると、死んだのかも知れませんね、どうして行方不明になったんですか」
「それがね、そんな小娘だけれども、油断がならないね、支倉の旦那が手を出したらしいんだよ。男ってみんなそう云う者さ。それがもとで一旦宿へ下げられたんだがね、まあそんな事で子供ながらも世の中が嫌になり家出したんだろうさ」
「可哀そうですね」
「可哀そうだと思うかね」
「思いますね」
「ふん、口先ばかりだろう。男なんてものはそんな事を平気で仕でかして置いて、直ぐケロリと忘れて終《しま》うんだから」
「そんな事はありませんよ。おかみさん」
「そう、岸本さんはそんな事はないかも知れないね」
「それで何ですか、おかみさん」
岸本はお篠の言葉をはぐらかしながら、
「支倉さんはどこに居るか分らないのですか」
「分らないの。尤も主人は知ってるかも知れない。手紙のやり取りなどして、いろ/\頼まれるらしいから」
「おかみさん、そんな悪い人ならそう云う風に隠まうのは好い事じゃありませんね」
「私もそうは思っているがね、之も浮世の義理で仕方がないのさ」
「義理って、そんな大切なもんですか」
「お前さんなどは未だ若いから、そんな事は分らないのも無理はないが、義理と云うものは辛いものさ」
「そんなに度々手紙が来るのなら、どこに
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