支倉事件
甲賀三郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)硝子《ガラス》戸
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)下|顋《あご》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ホカ/\する
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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呪の手紙
硝子《ガラス》戸越しにホカ/\する日光を受けた縁側へ、夥《おびたゞ》しい書類をぶち撒《ま》けたように敷散らして其中で、庄司利喜太郎氏は舌打をしながらセカ/\と何か探していた。彼は物事に拘泥しない性質《たち》で、十数年の警察生活の後現在の新聞社長の椅子につくまで、いろ/\の出来事を手帳に書き留めたり、書類の整理をしたりした事は殆《ほとん》どなかった。今日急に必要が出来て或る書類を探し始めたのだが、二十分経っても更に見当らないので、気短の彼はそろ/\焦《じ》れて来た。
彼はもう探すのを止めようと思った。そうして書類を見たいと言った友人の顔を思い浮べながら、云うべき冒葉を口の中で呟いた。
「昨日一日探したけれども、見つからんかったよ。大した事じゃないから、君、どうでもえゝじゃないか」
けれども、苦虫を噛み潰したような顔をしているその友人は、中々こんな事で承知しそうもないように思われたので、新聞社長は再びせっせと堆高《うずたか》い書類を漁《あさ》らねばならなかった。
書類の間に鼠色に変色した大型の封筒が挟まっているのが、ふと彼の眼を惹いた。
彼は急いで封筒を取上げて裏を返して見た。果して裏には墨黒々と筆太に支倉喜平《はせくらきへい》と書いてあった。彼は眉をひそめた。
「はてな、どうしてこんなものが残っていたのかしら」
中を開けて見るまでもなかった。執拗な支倉の呪の言葉で充ち満ちているのだ。支倉は彼が庄司氏に捕われて獄に送られ断罪まで十年の間に、庄司氏に当て呪の手紙を書き続けた。庄司氏は一つ一つに番号を打ってあった呪の手紙の最後の番号が七十五であった事を覚えている。その手紙の一つがどうした事か偶然発見されたのだ。庄司氏はふと過去を追憶した。
豪胆な、そうして支倉の犯した罪については少しも疑念を挟んでいなかった彼は、こんな呪の手紙位にはビクともしなかった。それに彼の強い性格と溢れるような精力は、彼を過去の愚痴や甘い追憶などに浸る事を許さなかった。然し支倉の事件は彼の長い警察生活の中で重要な出来事の一つだった。捜査の苦心、証拠蒐集の不備の為の焦慮、当時の世論の囂々《ごう/\》たる毀誉褒貶《きよほうへん》の声、呪の手紙、そんなものが可成《かな》り彼を苦しめた。
彼の眼前に宣教師支倉の獰猛《どうもう》な顔、彼が法廷で呶鳴った狂わしいような姿、彼の妻の訴えるような顔、さては証拠蒐集の為に三年前に埋葬された被害死体を発掘した時の物凄い場面などが、それからそれへと浮んで来た。
それから二、三日経った或る夜、庄司氏の応接室で卓子《テーブル》を取り巻いて主客三人の男が坐っていた。髪の毛の薄い肥った男は探偵小説家だった。色白の下|顋《あご》の張った小柄な男は警視庁の石子《いしこ》巡査部長だった。
「石子君は当時刑事でね、支倉事件に最初に手をつけた人なんだ」
庄司氏の顔は今宵支倉事件を心行くまゝに語る機会を得た事を喜ぶように輝いていた。
「初めは極《ご》く詰らない事からでしてね」
石子は語り出した。
「これが小説だと、凄い殺人の場面か、茫然とするような神秘的な場面か、それとも華やかな舞踏会の場面からでも始まるのですが、事実談はそうは行きませんよ」
逃亡
大正六年一月末、午後二時の太陽は静に大東京の隅々までを照していた。松飾などは夙《とう》に取退《とりの》けられて、人々は沈滞した二月を遊び疲れた後の重い心で懶《ものう》げに迎えようとしていたが、それでも未だ都大路には正月気分の抜け切らない人達が、折柄の小春|日和《びより》に誘われて、チラホラ浮れ歩いていた。それらの人を見下しながら、石子刑事は渡辺刑事と並んで目黒行の電車に腰を掛けていた。電車はけたゝましい音を立てながら疾駆していた。
「ねえ、渡辺君」
石子刑事は囁いた。
「之がもう少し大事件だと張合があるが、窃盗位じゃ詰まらないねえ」
「うん」
眼を瞑《つぶ》ってウト/\していた渡辺刑事は、突然に話しかけられたので好い加減な生返辞《なまへんじ》をした。
石子刑事は鳥渡《ちょっと》不機嫌になった。彼は詰らない窃盗事件だと云ったけれども、内心では得意だったので
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