ある。官服の巡査から私服の刑事に出世してから一年間、若い彼の心は野心に燃えていたけれども生憎事件らしいものに突き当らず、いつも他の刑事の後塵を拝しているような始末なので、稍《やゝ》焦り気味だったのが、今度始めて彼の手で嗅ぎ出した、どうやらもの[#「もの」に傍点]になる事件だったので、彼は充分意気込んでいるのだった。
 渡辺刑事は、口を結んで黙っている下|顋《あご》の張った同僚の横顔をチラリと見て軽く舌打をしたが、然し対手《あいて》の気を引き立てるように言った。
「そうでもないよ、君。たゞの窃盗とは違うさ。牧師の身でありながら聖書を盗むのだからね。而《しか》も君の話だと白昼堂々と盗み出すと云うじゃないか」
「そりゃそうなんだがね」
 石子刑事は少し機嫌を直した。
 石子刑事が、岸本清一郎と云う聖書販売人をしている青年の訪問を受けたのは三、四日前の夜だった。岸本は石子刑事が未だ所謂《いわゆる》官服で神楽坂署内の交番で立番勤務をしていた時分に、交番の近所にいた不良中学生だった。眉の濃いきりっとした顔立の少年で、どことなく不良にして置くのは惜しいような気がしたので、石子刑事はそれとなく善導につとめたのだった。その甲斐があって、彼は非常に感激して、後には別人のようになり、基督《キリスト》教信者になって、真面目に勉強するようになった。所が家庭の事情で、どうしても学校を続けられない事になり、石子刑事も、いろ/\尽力してみたが、遂に力及ばず、岸本青年はとうとう中学を中途で廃業して、聖書販売人になったのだった。彼は今でも石子刑事の恩義を忘れないで、時折は刑事の宅《うち》を訪ねた。石子が私服に出世した時に一番喜んだのは本人の次には恐らく彼だろう。
 その晩、岸本は暫《しばら》くもじ/\していたが、
「石子さん、実は信仰仲間を傷つけたくないのですが、大分以前から聖書を盗む奴がいるのです。大方当りはついているのですけれども、一つ教会の信用を損わないように挙げて下さらないでしょうか」
 彼の云う所によると、横浜の日米聖書株式会社と云うので、久しい以前からちょい/\聖書が紛失する。併し最近まで判然たる所は分らなかったが、二、三日前に今度会社で新に刷って倉庫に入れたまま、未だ売出さない所の新旧約全書が神保町辺の本屋で盛に販売されるので愈※[#二の字点、1−2−22]《いよ/\》確実になったと云うのだった。石子刑事は大した事件だとは思わなかったが、快く引受けてやったのだった。
「君の話によると、中々容易ならん奴だぜ」
 渡辺刑事は重ねて云った。
「うん、それ程でもないが、僕は第六感と云うのか、どうも奴がたゞの窃盗ではないような気がするのだ。殊によったら何か重大な犯罪でもやっていやしないかと思うのだ。渡辺君、何分宜しく御助力を頼むぜ」
 石子刑事は前途に何か期する所のあるように答えた。
 折柄電車は台町の二丁目で止まった。

 白金三光町から府下大崎町に跨った高台の邸宅は陽を受けた半面を鮮かに浮き出させながら、無人境のように静まり返っていた。
 石子刑事は渡辺刑事を伴ってとある横丁に這入《はい》った。
「あの家なんだ」
 石子は少し前方の可成大きな二階家を指し示しながら、
「僕は兎《と》に角当って見るから、君はこの辺で見張りをしていて呉れ給え。そしてもし僕が十分間出て来なかったら、なんとか旨《うま》い口実をつけて様子を見に来て呉れ給え」
 渡辺刑事は石子が先輩振って指図がましく振舞うのが不愉快だった。先輩と云っても石子はほんの少し許《ばか》り早く私服になったので、年齢から云ってもどっちも三十には少し間のある位の若者に過ぎないのだった。然し、今度の事件は兎に角石子が主として調べ上げたのだし、彼は云わば助手の位置にいたのだから、不承々々承知した。
「宜しい。僕はこの角から表門と勝手口とを見張っているから、しっかりやって来給え」
 石子は渡辺が内心不平なのを察していたが、今の彼はそんな事を省みていられない位、初陣の功名と云ったような気が燃えていた。彼は驀《まっしぐら》に目指す家に近づいた。
 古くはあるが見上げるような太い門柱と、植込みの繁っている中庭の奥から鳥渡姿を見せている堂々たる玄関が、意気揚々としていた彼の心を少し暗くした。門標に筆太に書かれている支倉喜平と云う四字が威圧するように彼の眼を射った。
 彼の目指す家の主人は宣教師である。相当学識もあり社会的地位も高い。聖書会社から聖書を盗み出したと云う忌わしい嫌疑で、彼に神楽坂署まで同行を求めて行くのであるが、もし彼がその犯人でなかったら、彼に対する気の毒さと自分の面目をどうしよう。いや彼が犯人であると云う事は確実であると信じているが、もし同行を拒んだらどうしたものだろうか。彼の大胆な遣口《やりくち》を見ると、
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