。
ギシリ/\と粗末な梯子段を軋らせながら、窮屈そうに降りて来た彼は、石子刑事を見てペコンと頭を下げた。朝から酒気を帯びていた。
「警察の旦那ですか。あっしゃ近頃御厄介になるような事はいたしやせんが」
どっちかと云うと丸い肉附きの好い、見るから酒毒で爛《たゞ》れたと云う赤ら顔や、はだけた胸のだらしなさは、痩せて仙骨を帯びたと云った風の兄の小林氏とはこれが兄弟かと疑われる程似もつかなかったが、口を開くと二本の異様な長い犬歯が現われて、血統のものにちがいないことを語っているようだった。
「何、心配するような事じゃないのだ」
石子刑事は気軽く云った。
「鳥渡《ちょっと》内密に聞きたい事があるのだがね」
「そうですかい。じゃ、すみませんが上って下さい。汚いのなんのって、珍しく汚いのですから、そのお積りで」
二階裏の一室は立てば忽ち頭を打つような窮屈さだった。剥出《むきだ》しの曲りくねった垂木には一寸程も埃が積もっていた。
「支倉の奴ですかい」
石子刑事が切り出すと彼は忽ち大声を出した。
「旦那、あんな悪党はありませんぜ。あれが耶蘇の説教師だていから驚きまさあ」
「支倉にいた親類の娘さんが行方不明になったそうだね」
「えゝ、あの野郎め、未だやっと十六になった許《ばか》りの姪を手籠めにしやがって、挙句の果にどっかへ誘《おび》き出して殺して終《しま》いやがったんでさあ」
定次郎の放言には石子刑事も驚いた。
「オイ/\、声が大きいぜ、滅多な事を云うなよ」
「へえ、すみません。実はわっちの方にも之と云う手証《てしょう》がねえもんですから、仰せの通り大きな声は出せねえのです。少しでも証拠がありゃ、今まで黙っちゃいないのです。
一体《いってえ》兄貴が意気地がねえもんだから、現在の娘をあんな眼に遭わされて、運命だ、いや荒立てゝは身の恥だなんて、中学校の先生なんてものはみんなあんなもんですかねえ。だから、あっしゃ見ちゃいられねえのです。姪を元の身体《からだ》にして返せとまあ、旦那、談判に出かけたもんです。支倉の奴は木で鼻を縛《くゝ》ったような挨拶をしやがったが、おかみさんが分った方《ひと》でねえ、病気の方は医者にかけて治療させると云う事になって姪の奴は一先ず世話した人の宅へ引取って、それから病院に通わせると云う事になったのです」
「それから」
「それから、その詫《わび》の印《しるし》にていんで、二百――ハヽヽッ、旦那兄貴はなんか言ってましたか」
「お前が支倉から二百両|強請《ゆすっ》たと云ったよ」
「じょ、冗談ですよ、旦那、強請たなんて、強請ったにも何もまるっきり貰っちゃいませんです。話だけ二百両で片を附けると云う事になった翌日、姪の奴が行方知れずになったのです」
「ふん、で、金の方はどうした?」
「あっしゃ何でも支倉の奴が邪魔者だと云うので殺《や》ったに違いねいと思って、飛込んで行ったのです。所が野郎落着き払って、逆にあっしに喰ってかゝるのです。貞が見えなくなったと云うのは貴様が隠したに違いない。早く本人を連れて来い。でなきゃ金は一文だって出せないぞ、って息巻くんでさあ、恰《まる》で云う事が逆なんでさあ」
「ふん、それからどうしたね」
石子刑事は早口に聞いた。
「あっしも黙っちゃいませんや、ね、旦那」
調子づいた定次郎は臭い息を吐きながら、
「あっしが貞子を隠すなんて途方もねえ事です。所がどうも口となるとあっしゃ不得手でしてね、とう/\支倉にやり込められて、僅かばかりの涙金で、スゴ/\と引下って来たんです」
「ふむ」
石子刑事は腕を組んだ。
「じゃ君は貞子の事については心当りがないのだね」
「からっきし、見当も何もつかないんです。だが、あいつも十六だったんですから、自分から死ぬ気なら遺書《かきおき》の一本も書くでしょうし、生きてるなら三年|此来《このかた》便りのない筈はねえでしょう。あっしはどうしても支倉が怪しいと睨んでいるんだ。旦那、あんな悪い野郎は御用にしておくんなさい」
定次郎の話も支倉に対する疑惑をいよ/\深くするだけで、積極的には何の役にも立たなかった。石子刑事は元気なく頭を垂れたまゝ汚い車宿を出た。
外へ出た彼はそのまゝ帰署して根岸刑事に相談しようかと思ったが、思いついて、一度支倉の留守宅を訪ねて、彼の妻に会って問い質して見ようと云う気になった。彼は水道橋駅から省線電車に乗り込んだ。
支倉の家は相変らずしーんとしていた。十日許りの間に庭の梅の木は主人のいないのも知らぬ気に一輪、二輪|綻《ほころ》びかけていた。離座敷に通されて、梅の枝を見上げた時に、取逃がした日の事が歴々《あり/\》と思い出されて、それからの苦しい四晩の徹夜、それから今日までの苦心の数々が、なんだか遠い昔から続いているように石子刑事に思われたのだ
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