は一通の事ではなかった。静子はその権幕におじたけれども今更隠す事も出来なかった。
「はい、一昨日差押えられました」
「うむ」
 支倉の眼は怪しく光った。
「騙《だま》されたのだ。署長に一杯|嵌《は》められたのだ」
 静子は夫の興奮があまりに激しいので、宥《なだ》めようとしたが、さっきからこの異様な光景に気づいていた看守は、忽ち二人の間を隔てゝ終ったので、面会はそれ切りになり、静子は夫に一言の慰めをも与える事が出来なかった。
 保険会社の方から云えば詐取せられた金だから、何とかして取返さねばなるまいが、この支倉が唯一の頼みにしていた彼の財産を差押えた事は、確に彼を悪化させる一つの原因だった。彼はこの事を上願書に次のように書いている。
「その翌々日荊妻が亦私に面会を求めて来ました。此時は荊妻はしおれた顔をして、さも心配そうにもう駄目です。家屋は東洋火災保険会社より仮差押えされましたと云って、しお/\と帰りました。あゝ我れは虚偽の申立をなし、殺さぬものを殺したとして、妻子を救う考えなりしに、救う事出来ず、我れは謀られたのであったか、我れも是までなり、残念至極、無念々々、謀られて我は冤罪の下に絞首台に上るか」
 支倉が自白を否認したり、狂気を装うたりし出したのはこの事があってから後らしく、それで見ると、家を差押えられた事が自白否認の大きな原因ではないかと思われるが、後に第二審公判の折、裁判長より何故に予審廷で一旦自白して置きながら、直ちに自白を飜えしたかと訊問されて、一旦は妻子を助けん為、虚偽の自白をしたがいつか一度は真実の事を述べて置かないと、後の裁判に不利で、遂に冤罪を逃れる機を逸すると思って、虚偽の自白である事を申立てたと述べている。別に家を差押えられて、神楽坂署で騙された事が始めて分り、その為虚偽の自白である事を暴露したとは云っていない所を見ると、さして大問題でなかったのかも知れぬ。
 然し、当面の問題として最も苦しんだのは静子だった。頼みに思う夫は未決監に繋《つな》がれ、身には一銭の貯えもなく、唯一の財産である家屋は尽く差押えられて了った。前にも云った通り当座は身についたものを一つ売り二つ売りして凌《しの》いだが、今はその売代《うりしろ》さえ尽きた。夫の公判の期日は迫っている。愈※[#二の字点、1−2−22]公判となれば正式に弁護士を依頼しなければならない。然し今は弁護士を依頼するどころか、明日の糧さえないのだ。その上近くこの家も立退かなければならない。そうすると差当り雨露を凌ぐ道にさえ差支《さしつかえ》るのだ。
 それからそれへと静子の物思いは尽きない。無心でスヤ/\と寝入っている子供の寝顔を見るにつけ、涸き切ってもう流れ出る源もあるまいと思われた涙が、又新たに浸み出して来る。血の涙と云うのはこの事であろう。
 あゝ、明日をどうしよう。子供をどうして育てよう。それよりも近々公判に廻る夫の身をどうして救けよう。夫は呉々も無実の罪と云っている。神楽坂署で立派に白状した時の様子は嘘らしく思えなかったが、今の夫も嘘を云っているとは思えぬ。どうかして有力な弁護士を頼んで、夫をあの苦しみから救い出したい。
 静子の心は千々に乱れたが、昼よりの疲れに、今は身心ともに困憊《こんぱい》して、そのまゝ子供の枕許へウト/\と寝崩れて終《しま》った。
 ふと、冷たい風が身に触れたので眼を醒ますと、何刻経ったか、夜は深々と更けたようで、雨戸の一枚明け放しになった所から外を見ると、いつの間にか空は真黒に掻き曇っていた。静子はあわてゝ、起き上って雨戸を閉めようとすると庭の奥に朦朧《もうろう》と人影が現われた。

 庭先に怪しい人影を見た静子は、
「あっ」
 と叫んでそのまゝ立|竦《すく》んで終った。
 人影はふら/\と彼女に近づいて来た。
「まあ、あなたは」
 静子は再び驚きの声を上げた。
 怪しい人影と思ったのは夫の喜平だった。彼は黙ってのそ/\と家の中へ這入った。平常通りの姿で、割に元気が好かった。静子は監獄にいる筈の夫がどうして今頃我家へ帰って来たのだろうと鳥渡不審の眉をひそめたが、別に深く怪しみもせず、彼を迎え入れた。
「よく帰って来られましたね」
「うん、酷い目にあったよ」
 彼は気軽に口を利いた。
「お前も気の毒だったねえ」
「いゝえ、私なんかなんでもありませんわ」
「でも、神楽坂署では随分いじめられたろう」
「えゝ、ちっとばかし」
「ちっとばかしじゃない。俺はよく知っているんだ。俺は何べんかお前の泣声を聞いたのだ」
 支倉はきっとなって云ったが、やがて調子を落して、
「俺もなあ、ひどい目に遭わされたよ。刑事が交る/″\徹夜で調べるんだ。そうして得体も知れない骸骨に接吻をさせるのだ」
「えゝっ」
 静子は脅えるような眼で夫を見上げた。
「ど
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