んな事があっても、身に覚えのない事は白状しない積りだったが、お前の泣声を聞くのは身を切られるより辛かったし、徹夜の訊問にはヘト/\になって終った。まゝよ、犠牲になってやれ、この家を売って妻子は困らないようにしてやるからと署長も云ったし、後の心配もないと思って、つい嘘の白状をしたのが一生の誤りだった。俺はすっかり署長に誑《だま》されたのだ。今となっては云い解く術がない」
「あなたは本当に身に覚えがないのですか」
 静子は探るような目で夫を見た。
「ない。本当に少しも覚えがないのだ」
「そ、そんなら」
 静子は耐らなくなって啜り上げた。
「な、なぜ、あんな白状をなすったのですか」
「それは今云う通り――」
「いえ、いえ」
 静子は激しく遮切った。
「どんな訳があったって、殺しもしないものを殺したなんて、馬鹿げています。あなたは、あなたは」
 静子は口が利けなかった。
「俺が悪かったんだ。だから俺は絞首台に上るものと覚悟している」
「いえ、いえ、そんな必要はありません。誠覚えのない事なら、裁判で無罪になります」
「所が俺はもう云い解く事は出来ないのだ。俺は署長に嵌められて手も足も出ないようになっている。俺は冤罪で罰せられるより一そ一思いに死んで終おうと何度自殺を計ったかも知れない。然しいつでも失敗だ。一度は合監の洋服屋に頼んで殺して貰おうと思ったが、それも駄目だった。俺は死ねないんだ。どうしても死ねないのだ。だから俺は決心した。どうしても死ぬまいと」
 喋っているうちに支倉の形相は次第に物凄くなって来た。彼は拳を握りしめ、歯をバリ/\と噛んだ。
「あ、あなた」
 静子は情なくなって来たので夫に犇《ひし》と縋ろうとした。
 支倉はそれを振放して怒号し続けた。
「俺は死なゝい。断じて死なゝい。俺は呪ってやるのだ。俺を苦しめたあらゆる奴を呪ってやるのだ。俺は今日限り俺の魂を悪魔にやって終うのだ。天地の間に充ちている悪鬼妖精、其他もろもろの邪悪の徒は聞け。支倉は今日只今より悪以外の事は何事もしない事を誓う。俺はそれによって、今日まで俺を苦しめたこの忌わしい社会、権謀と術数と、姦詐と陥穽に充ちた人世に一大復讐を遂げてやるのだ」
 支倉のかっと見開いた眼は見る/\吊上り、口は耳まで裂け、真紅の舌からは血汐が滴るかと見えた。静子は恐怖に顫えながらガバとつっぷした。

 悪鬼の姿に変じた支倉は尚も怒号を続けた。
「俺は死なゝい。断じて死なゝい。生きながら悪魔に化すのだ。俺を苦しめた奴等を片っ端から、呪って/\呪い抜くのだ!」
「あ、あなた」
 静子は必死の声を絞って叫んだ。
「そ、そんな恐ろしい事は止めて下さいまし。身に覚えのない事ならいつかはきっと晴れます。冤罪で死んだ者は安らかに何の苦痛なしに主の御許に行く事が出来ます。どうぞ、どうぞ悪魔の味方になる事は止めて下さいまし」
「ならぬ、ならぬ、俺は呪うのだ。己れ、庄司、神戸、神楽坂署の刑事ども、俺の呪をきっと受けて見よ。静子、お前との夫婦の対面も之限りだ」
 そう云いすてゝ支倉は忽ち身を飜えしていずくともなく立去ろうとした。静子は一生懸命に夫に縋りつきながら、
「まあ待って下さい。もう一度考え直して下さい。坊やをどうするのです。それ、そこにスヤスヤ寝ている坊やをどうするのです」
「なに、坊や、うん、俺も昔は恩愛の絆に縛られて、女々しい気にもなった。もう今の支倉にはそんなものは用はない。そうだ、今日生きながら悪魔になろうと誓った首途《かどで》の犠牲に、そいつを踏み潰してやろう」
 怒髪天を衝き眼は爛々として輝き、かっと大口を開いた支倉は忽ち足を飛ばして寝ている子供を蹴飛ばそうとした。静子は驚いてその足に縋りついて、大声に叫んだ。
「あれ! 誰か来て下さいっ!」
 然しどうしたのか声が思うように出なかった。一生懸命に夫を押えている手も女の悲しさ、次第に力が弱って、今にも子供諸共踏み躙《にじ》られそうになった。彼女は身を悶えながら只微に、
「あれ――」
 と呻くばかりだった。

「もし/\、奥さん。どうしたんです」
 耳許に聞き覚えのある太い声が聞えたので、ハッと眼を開くと、のっそり浅田が立っていた。静子は今まで転《うた》た寝の夢を見ていたのだった。
 吃驚した彼女は飛起きると、浅間しい寝乱れ姿を繕《つくろ》った。
「どうなすったんです。大そううなされていましたぜ。玄関で大分呼んだのですけれども、返事がないので上って来たのですが」
 浅田はニヤ/\しながら云った。
「いろ/\思い案じているうちに昼間の疲れでつい転た寝をしたと見えます。そして恐ろしい夢を見たものですから」
 居ずまいを直した静子は襟元にゾク/\と寒気を催しながら答えた。この程から一方ならぬ世話になっている浅田に対しては、断りなく居間まで這
前へ 次へ
全108ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング