連帯しなければならぬ事を忘れなかった。彼女は夫を寛容すると共に、世間にこの事の洩れないように、数々の苦心をしたのだった。
が、何事ぞ。夫は貞子を連れ出して古井戸に沈めて殺したと云うではないか。
神楽坂署で鬼のような刑事達に責め問われて、苦しい思いをしたけれども、そして夫に対していろ/\な悪評を聞いたけれども、彼女は尚夫を信ずる事を止めなかった。真逆そんな大罪を犯していようとは思えなかった。
署長の口から喜平がすっかり自白したと云う事を聞いた時に、彼女の総身の血汐は忽ち凝結して終った。危く倒れようとするのを踏み堪えた彼女の努力は殆ど超人的だった。
然し、彼女は署長から夫の自白を聞かされて、彼に面会を許されるまでに、すっかり冷静を取戻す事が出来た。彼女はすっかり覚悟を極めた。夫との間には既に一子がある。夫がいかに大悪人であっても、信仰の道に這入っている自分が今更に取乱すのは恥かしい、夫を慰め励まして後顧の憂えのないようにしよう。こう彼女は決心した。そうして彼女は懺悔の涙に濡れている夫の姿を、心静かに見上げる事が出来たのだった。
静子は作りつけの人形のように微動だにしないで考え続けていた。
夫が未決に繋がれてからの彼女の辛苦は一通りではなかった。予審廷へも度々呼び出されて、判事から辛辣な訊問をせられるし、附近の人々には嘲笑の眼で見られるし、それに弱味につけ込んで、親切ごかしに騙《かた》りに来る者や、強請《ゆすり》に来る者があった。親類縁者も誰一人助けて呉れるものはなく、稀にそんなのがあっても物質上の援助の出来るものはなかった。只写真師の浅田は時折訪ねては慰めて呉れるけれども、以前の事もあり何か胸に一物ありげで、打解けて心から彼を迎える事は出来なかった。
そんな訳で彼女の一番苦しんだのは金の調達だった。其日々々の暮しには何程の事もいらないとしても、未決監にいる夫への差入、代書人や弁護士に支払う高と云うものは少からぬものだった。それを女手で、ましてや今は世間から指弾されて、近づく人もない時にどうして生み出す事が出来よう。身の廻りのものを一つ売り二つ売りして支えるより仕方がなかった。
彼女の何よりの頼みは今住んでいる家だった。之を売れば纏まった金が手に這入り、有力な弁護士に依頼する事も出来ると考えたので、内々周旋屋に相談して見ると千五百円なら買手があると云う事だった。それで彼女は夫に面会の折にその事を話して見た。
「あの、家の事ですけれども、千五百円なら買手がありますので、売って終ってあなたの弁護料なり弁当代にしたいと思いますがどうでしょう」
「家を売る事は少しも差支ないがね」
支倉は大きな眼をグル/\させながら答えた。
「あの家は根岸刑事が三千円で売ってやろうと確く請合って呉れたのだ。で、わしはその金を自分の事に使う積りはない。その金を資本にして、お前が一生困らないだけの収入を得て、子供を育て上げて呉れゝば好いのだ。兎に角千五百円と云うのは余り安い。いくらなんでも二千円には売れるだろう。浅田に相談して見て呉れ」
浅田に相談することは気が進まなかったが、静子は逆らわないようにと、
「はい、それではそういたしましょう」
そう云って面会所を出たのだったが、それから二、三日経つうちに思いがけない大変が起った。それは東洋火災保険会社が家を仮差押えしてしまったのだった。
支倉が起訴されて予審が有罪と決すると、その刑事記録を証拠として、支倉を対手取り二つの私訴が提起された。
一つは例の聖書会社からで盗まれた聖書価格約七千円の損害賠償で、もう一つは今云う保険会社からで、詐取された保険額約三千円の損害賠償だった。保険会社の方は兎に角聖書会社は博愛主義の基督教の宝典たる聖書の販売元だから、罪を憎んで人を憎まずと、損害賠償の私訴などを起して、今更支倉を苦しめなくても好さそうなものだが、矢張りそうは行かぬと見えて、忽ち訴訟を起した。所が流石は聖書会社で物件の差押えまではやらなかったが、そこは機敏な保険会社が直仮差押えを申請したのだった。
この家屋は浅田の奔走で静子の名義になっていた筈であるが、手続が完了していなかったか、それとも外に仮差押えをする途があったか、兎に角、家はもうどうする事も出来なくなったのだった。
唯一の望みだった家が差押えられて終《しま》ったので、静子は茫然として終った。次の面会の時に彼女は悄然として夫にその事を語った。
「家を売ろうと思いましたが、保険会社に差押えられて終いました。もう駄目です」
「なにっ、差押えられた?」
支倉の相好は忽ち変った。彼のいかつい眉が釣上り、眼は爛々と輝いて、無念そうな有様は、流石の静子もタジ/\とする程だった。
「そ、それは本当かっ!」
家を差押えられたと聞いて、支倉の憤怒
前へ
次へ
全108ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング