るのだ。
この両説は久しい論争の後に、後説が正しい事が、実験的に決定したといっていい。笠神博士は熱心な三遺伝単位説の支持者で、その為に涙ぐましいような努力を払われている。私は医科に入学後、だんだん法医学に興味を持つようになり、殊《こと》に血液型とその応用について、最も興味を覚えたので、勢い笠神博士に近づかざるを得なかったのだが、始めにもいった通り、博士は非社交的で、堅苦しくて容易に親しめなかった。友人の中には私が法医学に進もうとするのを、嘲笑して、
「笠神さんなんて、意味ないぜ」
といった者さえあった。
然し、少し宛《ずつ》接近して行くうちに、博士には陰気の裏には誠意があり、堅苦しい反面には慈愛があり、無愛想の一面には公平無私のあることが、だんだん分って来たので、私は敬愛の度を次第に増して行った。所が一年ばかり以前に次のような出来事があって、先生が、
「自宅へ遊びに来ませんか」
という二十余年の教授生活に、未だかつてどの学生にもいわれた事がないという言葉を貰い、私達の親交は急速に進展したのだった。
血液型に興味を持った私は、無論自分の血液型を計って、A型であることを知ったが、更に両親や兄弟の血液型を調べて、統計上の助けにしようと思って、先生の指導を仰いだ。
その時分には、先生も私を熱心な研究生と認めて、大分厚意を示しておられたので、快よく血液型決定の方法《メトード》を教えて呉れて、それに必要な血清を分与されたのだった。
私は早速父母を始め弟妹の血液型を調べたが、思いがけない結果が現われたのである。
即ち、私の父はB型、母はO型で、弟妹共にO型なのだ。所が私一人だけA型である。而《しか》も血液型の定説に従えば、B型とO型の両親からは、絶対にA型は生れない事になっている。といって、私が両親を疑わなければならない理由は全然ないのだ。
私はこの事を先生に報告して、
「例外じゃないのでしょうか」
というと、先生はじっと私の顔を眺めて、
「測定の間違いはないでしょうね」
といわれた。先生はいつも口癖のように、血液型の決定は一見非常に容易のようで、素人でも一回教われば、直ぐその次から出来るように思える。又事実出来もするのであるが、決して馬鹿にしたものでなく、十分の経験と周到な用意を持ってしないと、往々にして他の原因で凝集するのを見誤る場合があるから、経験の足りないものの測定は危険性があるという事を、強調しておられたのだった。
「大丈夫だと思うのですけれども」
と答えると、先生は暫く考えて、
「もう一度やってごらんなさい」
といわれた。
それで、もう一回やって見たのだが、結果はやはり同様だった。
先生は、
「君の手腕を疑う理由《わけ》ではないんですが、一度採血して持って来ませんか」
そこで私は又かと嫌がる両親弟妹から、それぞれ少量の血を採って、先生の所へ持って行った。
それから二三日して、先生は結果については少しも触れないで、
「君は今の家で生れたんですか」
と訊《き》かれた。
「いいえ、今の家は移《こ》してから、未だ五六年にしかなりません。僕は病院で生れたのだそうですよ」
「病院で」
「ええ、初産ですし、大事をとって、四谷のK病院でお産をしたんだそうです」
「病院で」
先生は吃驚《びっくり》したようにいわれたが、直ぐにいつもの冷静な調子で、
「ああ、そうですか」
といって、それっきり何事もいわれなかった。
それから一週間ほど経つと、先生が不意に、
「君、自宅へ遊びに来ませんか」
といわれたのだった。
私は無論喜んで、先生の厚意ある言葉に従った。それから私は足繁く出入するようになった。
私が訪問すると、先生は直ぐに書斎に入れて、いろいろ有益な話をしたり、珍らしい原書を示したり、私の家の事を訊いたり、平生《へいぜい》無口な非社交的な先生としては、それがどれほどの努力であるかという事が、はっきり感ぜられるほど、一生懸命に私をもてなして呉れるのだった。それによって、私は先生の内面に充ち溢れる親切と、慈愛とを初めて知ることが出来たのだった。
博士夫人にも度々お目にかかった。夫人は前にもいった通り、実際の年よりも十も若く見えるほど美しい人で、殆ど白粉気のない顔ながら、白く艶々しく、飾気のない服装ながら、いかにも清楚な感じのする人だった。只、意外なのは、夫婦の間が何となく他人行儀で、よそよそしい事だった。博士は私に対しては、努めていろいろの話をされるにも関《かかわ》らず、夫人に対しては、必要な言葉以外には殆ど話しかけられず、稀々《たまたま》話しかけられる言葉も、いつでもせいぜい四五文字にしかならない短いものだった。私は二人の結婚が激しい恋愛の後に成立したと聞いていたので、この冷い仲を見て、どうも合点《がてん》が行かなかった。然し、考え方によると、こうした他人行儀的態度は、博士の性格に基くもので、学問に没頭して、それ以外の何の趣味もなく、何の興味もない博士の事であるから、必ずしも冷いというものではないかも知れないのだ。
夫人は飽くまで温良貞淑だった。少しも博士の意に逆おうとせず、自分を出そうとせず、控え目にして、書斎の出入には足音さえ立てないという風だった。私に対しても、控え目な然し十分な厚意を示された。決して一部で憶測しているような、博士は博士、夫人は夫人といったような離れ放れの夫婦ではなかった。噂によると、博士と夫人がこういう外観的の冷い仲になったのは、十年ばかり以前に夫婦の間の一粒種だった男の子が、十いくつかで死んでからだともいい、又、それは結婚すると間もなく始まったともいう。私にはどっちが正しいのか、それとも両方とも間違っているのか分らない。
話が大分傍路に這入ったが、之で私が血液型の研究から、博士と非常に親しくなった経緯は分って貰えたと思う。
話を本筋に戻そう。
脅迫状
署長は机の抽斗から、紙片を取り出して、私に示した。紙片は薄いケント紙を長方形に切ったもので、葉書よりやや大きいかと思われるものだった。それに丸味書体《ルンド・シュリフト》という製図家の使う一種の書体で、次のような文字と、記号が書かれていた。
[#ここから12字下げ]
Erinnern Sie sich zweiundzwanzigjahrevor !
Warum O×A → B ?
[#ここで字下げ終わり]
「ドイツ語ですね」私はいった。「二十二年|以前《まえ》を思い出せ、と書いてありますね。それから何故《ワルーム》、というのですが、この記号は――」
私は首を捻った。
兎角人は物事を、自分の一番よく知っている知識で解決しようとするものだ。例えば患者が激しい腹痛を訴えた時、外科医は直ぐ盲腸炎だと考え、内科医は直ぐ胆石病だと考える、というような事がいわれている。そこで、私はこの記号を、直ぐ血液型ではないかと考えた(そしてこれは間違ではなかったのだが)。
「えーと、之は血液型の事をいったのじゃないでしょうか」
「どういう事ですか」
「つまり、何故ですね、何故、O型とA型から、B型が生れるか」
「何の事です。それは」
「そういう事ですね。O型とA型の両親からB型が生れるのは何故か、という事なんでしょう」
「それと前の言葉とどういう関係があるんですか」
「分りません」
「ふん」
署長は仕方がないという風にうなずいた。
私は訊いた。
「一体なんです。之は」
「毛沼博士の寝室で発見されたんです」
「へえ」
意外だったが、意外というだけで、それ以上の考えは出なかった。それよりも、今まで肝腎の事を少しも分らせないで、散々尋問された事に気がついたのだった。私は最早猶予が出来なかった。
「毛沼博士はどうして死んだんですか」
「瓦斯の中毒ですよ。ストーブ管がどうしてか外れたんですね。部屋中に瓦斯が充満していてね、今朝八時頃に漸く発見されたのです」
「過失ですか。博士の」
「まあ、そうでしょうね。部屋の扉が内側から鍵がかかっていましたからね」
「じゃ、博士が管を蹴飛ばしでもしたんでしょうか。私が出た時には、確かについていましたから」
「そうです。博士が少くても一度起きたという事は確かですから。鍵を掛ける時にですね」
「八時までも気がつかなかったのはどういうものでしょう」
「休日ですからね。それに前夜遅かったし、グッスリ寝ていたんでしょう」
説明を聞くと、十分あり得ることだ。現に知名の士で、ストーブの瓦斯|漏洩《もれ》から、死んだ人も一二ある。だが、私には毛沼博士の死が、どことなく不合理な点があるような気がするのだった。
「じゃ、過失と定ったのですか」
「ええ」
署長はジロリと私の顔を眺めて、
「大体決定しています。然し、相当知名の方ですから、念を入れなくてはね。それで、態々《わざわざ》来て貰ったのですが、御足労|序《ついで》に一度現場へ来て呉れませんか。現場についてお訊きしたい事もあるし、それに君は法医の方が委しいから、何か有益な忠告がして貰えるかも知れない」
「忠告なんて出来る気遣いはありませんけれども、喜んでお伴しますよ」
私達は直ぐ自動車を駆って、毛沼博士邸へ行った。もう十時を少し過ぎていて、曇り勝な空から薄日が射していたが、外は依然として寒く、街路に撒《ま》かれた水は、未だカンカンに凍っていた。邸前に見張をしていた制服巡査は寒そうに肩をすぼめていたが、署長を見ると、急に直立して、恭々《うやうや》しく敬礼した。
寝室は死骸もそのまま、少しも手がつけてないで保たれていた。昨夜あんなに元気だった博士は、もうすっかり血の気を失って、半眼を見開き、口を歪めて、蒲団から上半身を現わしながら、強直して縡切《ことき》れていた。
私は鳥渡不審を起した。
死体の強直の様子から見ると、少くとも死後十時間は経過しているように思われる。そうすると、博士の死は夜半の十二時後になり私達が部屋を出てから一時間半後には、絶命した事になる。仮りに私達が部屋を出た直後、博士が起きて、扉の鍵をかけ、その時に誤って、ストーブの管を抜いたとしても、絶命までには瓦斯の漏洩は一時間半である。僅かに一時間半の漏洩で、健康体が完全に死ぬものだろうか。
私は部屋を見廻した。部屋は十二畳位の広さで、天井も可成高い。今はすっかり窓が開け放たれているけれども、仮りにすっかり締められたとしても、天井の隅には金網を張った通風孔が、二ヶ所も開けてある。私には瓦斯がどれ位の毒性のあるものか、正確な知識はないが、この部屋にこのガス管から一時間半噴出したとして、或いは知覚を失うとか、半死の状態にあるとか、仮死の状態になるとかいう事はあり得るかも知れないが、その時間内に絶命するという事はどうかと思われるのだ。
私がキョロキョロ室内を見廻したので、署長は直ぐに訊いた。
「昨夜と何か変った所がありますか」
「いいえ」
と答えたが、署長の言葉に刺戟されて、ふと昨夜興味を持った雑誌の事を思い出して、机の上を見ると、私は確かにちゃんと揃えて置いたのに、少し乱雑になっているようである。
(夜中に博士が触ったのだろうか)
と思いながら、傍に寄って、一番上の雑誌を取上げて、鳥渡頁を繰って見たが、私は思わずアッと声を出す所だった。然し、辛うじて堪《こら》えて、そっと署長の方を盗み見たが、幸いに床の上にしゃがんで、頻《しき》りに何か調べている所だったので、少しも気づかれないようだった。
何が私をそんなに驚かしたのか。私は昨夜ここへ毛沼博士を送って、ふと机の上の雑誌を見て、興味を持ったのは、それがかねて、私が、というよりは笠神博士の為に、熱心に探し求めていた雑誌だったからである。それは一二年以前にドイツで発刊された医学雑誌であるが、その中には法医学上貴重な参考になるべき、特種な縊死体の写真版が載っていたのだった。この雑誌は日本に来ているのは極く少数である許《ばか》りでなく、ドイツ本国でも発行部数が少ないので、どうしても手に這入らなかったものだった。昨夜ふとこの雑誌を
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