ので、誰でも鳥渡頂上へ行って見たくなる。今いう旅人もそれで、野麦峠からふと乗鞍に登りたくなってやって来た。所が急に雨に会うて、生命から/″\小屋に逃げ込んで来たちゅう訳やったそうだす。
この雨が中々晴れまへン。四五日籠城していますうちに食糧が心配になって来ました。そこで、晴間を見て、馴れた人夫が平湯まで食糧を取りにおりました。その留守の事だすが、茲《こゝ》に逃げ込んで来た旅人が、クレバスの中に落ちて、行方が分らなくなった椿事《ちんじ》が持ち上りました。
この時の事を私は何とかして委《くわ》しゅう調べよ思うて、随分苦心しましたけンど、恰度その当時居合した人夫が、死んだり、他所《よそ》へ行ったりして、一人もおりまへん。平湯へ食糧を取りにおりた人夫はおりましたけンど、之は現場に居合さんのやよって、はっきりした事はいえまへん。歯痒《はがゆ》うてしようがおまへなンだが、結局、名前も住んでる所も何も分らん男が一人、雪と雪との間の亀裂《ひゞ》に落ちて死んだちゅう事だけで、委しい事は一向分りまへなンだ。
で、つまる所、私が態々《わざ/\》乗鞍岳へ登って、得て来たちゅうものは、この一つだけだすが、之が、可成大きな発見だす。以前にも申しました通り、和武はこの時に山から帰ってから、二三年消息を晦《くら》まし、再び現われた時にはころッと性質が変っています。あれほど好きだった山登りもふっつり止めるし、惚れ抜いていた女子の所へも、ふっつり寄りつかなくなるし、喜んでいた上京も止めています。山で何事も起らんで帰って来たンなら兎に角、得体の知れぬ人間が途中で飛び込んで来て、四五日一緒にいて、忽《たちま》ち消えてなくなっております。鳥渡変な事が考えられるやおまへンか。
そうなると、その変な旅人の人相が問題だすが、之が又はっきり覚えとる人夫があらへンのだす。和武と似ていたかちゅうて訊くと、なンやよう似ていたような気がするちゅう返事で間違えるほど似ていたかちゅうと、それほどでもないと答えるかと思うと、四五日の籠城の時に、一ぺん間違ったことがあるちゅうし、何をいうても山男見たいな人間のいうことで、さっぱり、はっきりした事がいえまへンので、どうにもならんのだす。
けンど、所謂《いわゆる》情況証拠ちゅう奴が、大分揃うていますさかい、私はえらい大胆な判断やけど、ひょっとしたら、今の和武は偽者やないかしらんちゅう事を砂山さんに報告しました。
砂山さんは、「ふーん」ちゅうて五分間ほど感心していましたが、「一つ首実験をして見よやないか」といいました。首実験ちゅうても、子爵家の人は十八の年から会わンのやよって、あきまへん。一番適任者は花江の照奴だす。所で、照奴に何ちゅうて和武の首実験をさしたらえゝか、大分苦心しました。結局旨く胡麻化して隙見《すきみ》をさせましたが一ぺンに違うといいまへン。よう似てるが、違う所もあるちゅうような事だす。いっそ、会うて話さしたら思うて、その事をいいましたが、之は照奴は何というても諾《き》きまへン。長うなりますから、省きますけンど、和武の鑑定の事につきましては、砂山さんと二人で、どんだけ苦労したやら知れまへン。
で、結局、之という動かせない証拠は掴めまへンだしたが、こういう疑いが可成濃厚や、ちゅう事を子爵家に報告しました。
すると、子爵家に男勝《おとこまさ》りの乳母がいましてな。おせいちゅうんだすが、この人が表向き和明ちゅう子の乳母になっておりますが、実は生みの親だンね、子爵家の縁故のもんで、子爵家の在亡に係る事だすし、現在の生みの子の一大事だすさかい、一生懸命だしてな、私もあれからこっち、あんな激しい気性の女子《おなご》を見た事がおまへン。このおせいさんが、和武に会うて、偽者やったらとっちめてやるちゅうて、諾《き》かはりまへン。子爵家の人もとうとう折れて、和武に会わしたンだす。
この会見の内容はちょっとも分りまへン。が、その結果、和武は訴訟をすっかり取下げました。それと同時に、和武は東京に永住することになって、子爵家に大手を振って出入するようになりまして、子爵家の事にあれこれと口出しをするようになりましたンや。
何や、狐に魅《つま》まれたようなお話で、お聞き下さいましたみなさんは、物足らんように思われますやろが、私も実はけったい[#「けったい」に傍点]な気がしました。けンど、私は雇われたンで、成功したちゅうて、ちゃんと報酬も貰いましたし、訴訟も片づき、万事丸う治まったンで、もう之以上何ともしようがありまへン。
話ちゅうのは之だけで、何や解決したようなせんような、歯痒《はがゆ》い事だすけンど、小説と違うて実話だすさかい、どうもしよがおまへン。けれども、鳥渡毛色の異《ちが》った、面白味のある事件やと思いましたンで、お話し申上げたような訳でござります。
[#ここで字下げ終わり]
読み終って、野村は又もやドシンと頭を殴りつけられたような気がした。父の遺書を読んで以来、幾度か驚き、幾度か意外の感に打たれたが、数多い書類を読み進むほど、事件は益々奥深くなり、神秘性を増して、底止《ていし》する所を知らないのだ。
談話速記には尽《こと/″\》く仮名が使ってあるが、それが二川子爵家の出来事である事は、関係者にとっては余りにも明白だ。三十年も以前の事だと思って、不用意に述べられた談話は、どれだけ重明に打撃を与えたか、想像に余りあることだ。犯罪実話の語手《かたりて》の無責任な態度には、野村は少なからぬ義憤を感じた。
が、重武が唾棄《だき》すべき詐欺漢《イムポースター》であるとは! 無論確証はない。然し、野村には、そうであることが確かに感ぜられるのだ。さて、この談話速記によって、二川重明はどんな事を感じ、どんな事をしようとしたゞろうか。野村は第三と番号のつけてある、重明の遺書を取上げた。
[#ここから2字下げ]
野村君、順序通り読んで呉れたと思う。そうして、君はまさか速記の切抜が、僕の家に関係した事であることを否定しはしまい。実はこの速記を手に入れた時に、直ぐ君に相談しようと思ったけれども、君が頭から二川家に無関係であることを主張しやしないかと思って止めたのだ。僕はむろん速記を読み終るのと同時に、この談話の語手である刑事を探した。所が、なんと皮肉に出来ているではないか、彼は僕が探し当てた数日前に、脳溢血で死んでいるのだ! 最早僕にはこの話について、確めるべき人間は一人も残されていないのだ!
僕が両親の実子でないこと、お清さんと呼んでいた乳母が実母であった事は、それほど僕を驚かさなかった。やっぱりそうだったかと、深い溜息をついただけだった。
僕は物心のついた頃から、この疑惑に悩まされ続けていたのだ。それは、そういう事を経験した人でなければ、到底想像する事の出来ない苦しみだと思う。父母はどんなにか僕を熱愛して呉れたか。父は早く死んだけれども、母は長く僕を愛し慈《いつくし》んで呉れた。にも係らず、僕は絶えず他に父母を求めているのだ。この事については、最早長くは書くまい。
叔父重武に関する秘密は、文字通り僕を驚倒させた。本当に僕は一時気が遠くなったほどだった。
僕は以前から叔父に――といっても叔父その人ではなく、その立場に大へん同情していたのだ。何故なら、彼は妾腹に生れたばかりに、不愉快な生活を余儀なくされて――殊に十一二の年から十八までの二川家の生活は、どんなにか味気ないものだったろうと思う。父に別れてからは周囲は他人ばかりで、唯一の肉親である兄が却って白眼《はくがん》で見るのだ。只一人の同情者も持たない彼が、童心を苛《さい》なまれ、蝕ばまれて行った事がはっきり分るのだ。
だが、僕は叔父その人には同情が持てなかった。何故なら彼は余りに俗的で、厚顔で金銭慾の強い、凡《およ》そ僕とは対蹠的な人間だったからだった。もし、彼がもっと典雅で、慎しみ深くて、無慾|恬淡《てんたん》だったら、僕は夙《と》うに彼に二川家を譲っていたかも知れぬ。何故なら彼こそ、二川家の正当の相続人なのだ。疑惑に止っていた間でも、僕はそう思っていたのだから、今や僕が二川家に対して、その権利を抛棄すべきであることが、はっきりした場合、一層そうしなければならない筈なのだ。
けれども、僕はどうしても叔父が好きになれないのだ。そして、なんと、彼は汚らわしい詐欺漢《イムポースター》だというのではないか。むろん、それは確実ではない――けれども、僕はそれが確実のように思えてならないのだ。わが二川家の血統のうちに、あんな俗物が、あんな厚顔強慾の人間が出そうな筈はないと思うのだ。
と同時に、僕は三十年前の相好と少しも変らないで、大雪渓の下に彫像のように眠っているであろう所の叔父重武が、無限に可憐《いと》しく、いじらしくなって来た!
もし、今の叔父が偽者《イムポースター》であるならば、真の叔父は何という数奇な可憐な運命を背負った事であろう。刑事某の談話の如く、叔父は純情の持主だったのだ! 恋を語り、山を愛したこと、みな彼の純情のさせた事ではないか。彼はわが二川家の相続人として、十分の資格を備えていたのだ。それが童心を傷けられ、家を出て放浪の旅に登り、漸《ようや》く傷けられた胸を少女の捧ぐる愛と、高山の霊気に癒した時に、彼は恐るべき兇漢の為に、死の深淵に突き落されたのだ!
が、然し、野村君、果して今の叔父は偽者《イムポースター》だろうか。僕は母以下が僕の素性の暴露するのを恐れて、叔父に関する事件をうやむやに葬り去った事を、心から憎む、鶯《うぐいす》は時鳥《ほととぎす》の卵を育てゝ孵《か》えすというが、その事は彼等の世界には、何等の悲劇も齎《もた》らさないのだろうか。人間の世界では、それは断じて許すべからざることだ。それはすべての関係者を、責め苛み、地獄に落すものだ!
野村君、僕は一体どうしたらいゝのだろうか。叔父が確かに叔父その人に相違ないのなら、その人物の好悪《よしあし》に関係なく、僕は二川家を譲りたいと思う。何故なら彼が正当の相続者なのだから。けれども、もし彼が偽者《イムポースター》だったら。だが、どうしてそれを区別することが出来るのだ!
もし真《まこと》の叔父が、大雪渓の下に眠っているのなら――あゝ、野村君、僕はあの呪われた速記を読んだ時以来、夜となく昼となく、この妄念につき纒《まと》われたのだ。
僕は、仮令《たとえ》それが気違いじみていても、いや、気違いそのものの行為であっても、僕は乗鞍岳の雪渓を発掘せずにはいられなかったのだ。むろん、僕はその前に、乳母であり、僕の実母であった高本清《たかもときよ》を探した。然し、生きている筈なんだが、彼女をどうしても尋ね出すことが出来ないのだ。僕に残された方法は、たった一つだったのだ。
野村君、僕が雪渓発掘の準備にかゝると、叔父重武は表面は何の動揺も示さなかったが、それ以来は、彼の見えざる看視《かんし》が、見えざる触手が、僕の周囲で犇《ひし》めいている事を僕ははっきり感ずるのだ。決して、それは僕の神経衰弱や、強迫観念のさせる事ではないのだ。
野村君、僕はどんな困難と闘っても、やり遂げて見せるつもりだ。雪渓の発掘が失敗に終ったら、又別な方法を考えるつもりだ。一生かゝっても、無一文となっても。気違いと嘲けられても、馬鹿と罵られても、叔父が真の叔父か、偽者《イムポースター》であるか、きっと区別をつけるつもりだ。
野村君、然し、叔父の眼は光っている。彼は僕よりも遙かに狡猾で、冷血で、そして、僕よりも、より絶望的《デスペレート》である筈だ。僕はそれを恐れているのだ。
野村君、僕が生前僕の心境、僕の決意を、|打明けて《フランクリー》に話さなかった罪を許して呉れ給え。僕自身はこれが遺書になって、君の眼に触れる場合のない事を望んでいるのだ。然し、君は未知の弁護士から、これを僕の遺書として受取るかも知れぬ。その時こそ、僕が尋常の死に方をした時ではない筈だ。
仮令《たとえ》僕が尋常でない死に方をしたといっても、僕は君にどうして呉れと
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