は要求出来ないし、又要求もしない。どうか、君の思う通りにして呉れ給え。
 それから特につけ加えて置くが、僕は近頃不眠症が嵩じて、毎夜催眠剤を執っている。然し、断じて自殺などはしないから、自殺どころではない、重武との勝負がすむまで、うっかり病死も出来ないのだ。その点はしっかり考慮に入れて置いて呉れ給え。
[#ここで字下げ終わり]


          六

 父の遺書から二川重明の遺書へと読み続けた野村は、昂奮から昂奮への緊張で、すっかり疲労して終った。
 重明が何故乗鞍岳の飛騨側の雪渓の発掘などと途方もない事を企てたのか、はっきり知る事が出来た。彼の行為そのものは気違いじみていたけれども、それは健全な頭から考え出されたものだった。彼は決して発狂したのではなかった。又、自殺を企てるような精神|耗弱者《もうじゃくしゃ》ではなかった。それ所ではない。彼はその遺書で、堅く自殺を否定しているのだ!
 然らば彼の死は?
 野村は今までに何度となく感じた所の、重明に対する友情の足らなかった事を、又もや強く感じるのだった。生前もっと相談相手になればよかった。こちらがもっと親身にすれば、彼の方だって、きっともっと打明けた態度になったであろう。生前にこの事実を知ったら、何か旨い忠告が試みられたかも知れない――が、すべては後の祭りだった。
 野村は、彼を信頼して、死後遺書を送って来た重明に対して、どうしたらいゝだろうか。
 すべては翌日の問題として、その夜は眠られぬまゝに明かした。

 警察或いは検事局に告発するという事が、翌朝野村の頭に浮んだ最初のものだったが、彼は少し躊躇した。そうした官署へ告発すべく、内容が余りに怪奇で、曖昧で、確証が少しもないのだ。私立探偵を、と考えたが、之は適当な人も思い浮ばなかったし、効果もどうかと思ったので、直ぐその考えを止めた。
 で、結局、野村自身が探偵に従事することにした。

 野村は二川邸に向った。一度聞いた事ではあるが、もう一度委しく重明の屍体発見当時の事を聞かなくてはならないのだ。
 昨日解剖の為に屍体が大学へ持って行かれたので、予定が一日延びて、いよ/\今夜最後の通夜をして、明日は荼毘《だび》に附する事になっていた。
 重武は葬儀委員長という格で、相変らず何くれと采配を振っていた。野村を見ると、
「やア」
 と、愛想よく挨拶《あいさつ》したが、思いなしか、野村にはそれが、態《わざ》とらしく聞えた。何だかジロリと探るような眼つきで見られたような気がした。そんな事は野村の邪推であるとしても、重武が何となく嬉しそうで、それを隠そうとして隠し切れず、変にソワ/\している事だけは、間違いはなかった。
 野村は重明の棺の安置した部屋で焼香をすませると、ソッと立って、廊下の所で小間使の千鶴を呼留めて、廊下の傍の洋室へ彼女を招き入れた。
「鳥渡《ちょっと》聞きたい事があるのだけれども」
 野村は何気なくいった積りだったが、やはりどことなく緊張していたと見えて、千鶴は、急に顔の筋を引締めて、
「は」
 と言葉少なに答えた。
「確か、あんたが最初に重明さんの死んでいるのを発見したんだったね」
「は」
「十時頃だったね」
「は、十時に二三分過ぎていましたと思います。時計を見ますと、そんな時刻でしたから、鳥渡御様子を見に参りました」
「その前に誰も部屋に這入らなかった?」
「はい、御前さまの部屋へは、私以外の方は出入しないことになっております」
「然し、もしかしたら、誰かゞ――」
「私が起きましてからは、お部屋に注意いたしておりましたから、決してそんな筈はございません」
「では、前の晩は」
「九時半頃、寝室にお這入りになりました。そして、私が持って参りましたコップの水で、お薬をお呑みになりまして、『お寝《やす》み』と仰有《おっしゃ》いましたので、私はお部屋を出ました。それっきり今朝まで、私はお部屋に這入りませんでした」
「部屋は中から締りが出来るのかね」
「いゝえ、誰でも出入が出来ます」
「じゃ、昨夜十時すぎから今朝までのうち、誰でも出入出来る訳だね」
「はい――でもどなたも出入などなさらなかったと思います。本当に御前様がお自殺遊ばさるなんて、夢のようでございます」
 千鶴はもう涙ぐんでいた。
「前の日、誰か客はなかったかね」
「どなたもお出《いで》になりませんでした」
「重武さんは、昨日より以前に、一番近く、いつ頃来られた?」
 野村は重武がどこかの隅から、彼をじっと見詰めているような気がした。事によると、実際に、廊下の外から扉《ドア》に耳を当てゝいるかも知れないのだ。
 千鶴はちょっと考えて、
「暫くお見えになりませんでした」
「そう」
 と、野村は直ぐに話題を転じて、
「重明さんの呑んだ薬というのは、いつも呑んでいた催眠薬に違いなかった?」
「えゝ、太田さまから頂く薬でございました」
「薬は誰が貰いに行くの」
「私が隔日に頂きに参ります。恰度その日の朝頂いて来たばかりでございました」
「他に薬はなかった?」
「えゝ、他に召し上るような薬はございませんでした」
「むろん、他に何か呑んだような形跡はなかったんだね」
「はい、別に見当りませんでした」
「有難う」
 野村は部屋を出た。

 重武は二川邸に暫く立寄らなかったという。彼が催眠剤を恐しい毒薬にスリ替えたとは思われない。重武からどんな薬を貰ったとしても、重明がそれを呑む気遣いはないのだ。子爵家の雇人は千鶴を始め、すべて信頼の置けるものばかりだ。殊に千鶴は情のある淑やかな娘で、身許も確かだし、女学校も出ているし、重明が安心して、身の廻り万端の世話をさしているので、重武に買収されて、医師の薬を毒薬にスリ替えるような大それた事は、絶対にするとは思えない。
 初めの野村の考えでは、当日重武が何食わぬ顔をして、ブラリと遊びに来て、巧みにスリ替えて行ったのではないかと思ったが、重武は当日は愚か、暫く二川家に立寄っていないのだ。当日は別に客はなかったというし、家の者には疑いを掛けるようなものは全然見当らないのだ。
 やはり自殺したのか。それとも過失死か?
 遺書には断じて自殺などしないと書いてあったけれども、人間の頭はどんな事で狂うかも知れぬ。突発的の発作で、自殺しないとも限らぬ。他殺だと考えられる点が全然ないではないか。
 過失死とすると――そうだ、太田医師の投薬の誤りかも知れない。野村はぎょっとした。医師が自分の過失を隠す。之はあり得る事だ。
 野村は口実を作って、二川邸を出た。そして、そこから余り遠くない太田医院に急いだ。

 太田医師というのは、丸顔のでっぷりした体格の、信頼出来そうなタイプの人だった。医院も大きくて堂々としていた。
「可成ひどい不眠症のようでして」と、太田医師は極めて気軽に話して呉れるのだった。「普通の人ならどうかと思われる位の量でしたが、あの方なら二回分一|時《どき》に呑んでも大丈夫です。何しろ、ひどい神経衰弱ですから、危いと思って、二回分しか渡さず、それだけの用心をして置いたのです。決して調剤の間違いじゃありません。私の方には専門の薬剤師が置いてありまして、責任を持って調製いたしておりますから、絶対に間違いはありません。殊にですな、解剖の結果、益々当方の過ちでない事が証明されましたよ。というのは、二川子爵は全然私達の薬局に備えつけてないような猛毒性のアルカロイドを摂取しておられるんですよ」
「解剖の結果、分ったのですか」
「えゝ」
 と、この時に野村は重大な事を思い出した。今までどうして気がつかなかったのだろうと思いながら、
「こちらで頂いた催眠剤は二回分あった訳ですな」
「そうです」太田医師は直ぐうなずいて、「当日取りに来たのでしたから、二回分あった筈です」
「すると、残りの一回はどうなったのでしょうか」
「二回分一緒にやっちゃったのですよ」
「二回分?」
「えゝ、今までに例のないことで、二川子爵は私を信頼して呉れましたし、中々よく医師のいいつけを守る患者で、之まで二回分を一度に呑むなんて事はなかったのでしたが、死を一層確実にしようと考えられたのでしょうかね。二度分を一|時《どき》に呑まれましたよ」
「然し――」
 そういう猛毒性の立どころに死ぬような毒薬を煽《あお》った者が、今更一回分の催眠剤を追加して見た所で仕方のない事ではないか。小間使の千鶴の前では確か一回分しか呑まなかった筈だ。これは小間使を安心させて、自殺することを悟られない為の用心と見られるが、小間使が出て行ってから、毒薬と一緒に残ったもう一回分の催眠剤を取ったのは可怪《おか》しいではないか。
 野村はこの事をいおうと思ったが、別に必要もない事だと思って直ぐ止めた。そして、
「どうもいろ/\有難うございました」
 といって、太田医院を出た。

 彼は再び二川邸に行った。
 そうして、もう一度千鶴を別室に呼んだ。
 重武が異様な眼で彼の行動を見守っているであろう事は、十分察せられたが、今は、そんな事を考慮に入れていられなかった。
「度々《たび/\》だけれども」野村は千鶴の利発らしい顔をじっと見つめながら、「前の晩、君が水を持って行った時に、重明さんは催眠剤を呑んだというが、むろん一回分だったろうね」
「はい、一度分でございました。一服だけ召し上って、もういゝからあっちへお出《いで》、おやすみと仰有《おっしゃ》いました」
「すると、もう一服残っていたね」
「はい」
「それで、翌日の朝部屋に行った時に、その残りの一服はどうなっていた?」
「覚えておりません」
 千鶴は始めて気がついたように、ぎょッとしながら、
「本当にうっかりしておりました。御前様が床の中から半分身体を出して、両手を拡げて死んでいらっしゃいましたので、つい、その方に気を取られまして、お薬の方は少しも気がつきませんでした。どうなったのでございましょうか」
「御前様が死んでおられるのを発見した時に、君は、どうしたの?」
「御前さまが大へんですッといって大声を上げました。そしたら、直ぐに市ヶ谷さまが飛んでお出になりました――」
「なにッ、市ヶ谷さまだって」
 野村は吃驚《びっくり》した。重武は市ヶ谷に住んでいたので、二川子爵家の雇人達は市ヶ谷さまと呼んでいたのだった。
 千鶴は野村の剣幕が激しいので、呆気にとられながら、
「はい」
「だって、君は重武さんは暫く見えなかったといったじゃないか」
「それは前の日までの事のように伺いましたから。当日の朝九時頃に参られましたのでございます」
「九時頃に」
「はい、御前さまは未だお寝み中です、と申し上げましたら、格別急ぐ用でもないから、待っていようと仰有いましたので――」
「そうか。それで君は十時頃部屋へ様子を見に行ったのだね」
「はい、それもございましたけれども、いつも朝早く一度お眼覚めになります習慣でしたので、少し心配になりまして見に行きましたのでございます」
「重武さんが見に行けといったのではなかったんだね」
「はい、市ヶ谷さまは何とも仰有いませんでした」
「それで、君が大声を上げると真先に重武さんが飛んで来られたのだね」
「はい」
「それからどうした?」
「市ヶ谷さまが、之は大変だ、直ぐ警察へ電話を掛けろ。誰も触っちゃいかんぞ、と仰有いました」
「警察へ――ふん、医者を呼べとはいわれなかったか」
「はい、その時は仰有いませんでした。後に太田さんを呼べと仰有いましたけれども」
 重武は何故重明が死んでいるのを見て、医師より先に警察を呼べといったか。秘密にする必要があるとはいえ、親しいものにも通知をしなかった点、又、真先に部屋に飛び込んだ点など、疑えばいくらでも疑える事ではないか。
 仮りに重武が薬をスリ替えたのだとすると、彼は残りの一服をどうかしなければならないのだ。それには太田医院の薬局にもないような新しく発見された猛毒が這入っているのだから、到底太田医院の調剤の過ちという事には出来ないのだ。彼は恐らく残った一服の内容をどこかへ明けて終《しま》って、重明が呑んで終ったよ
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