、後にそうやったのかと思い当ることがあるのだす。
さて、私が調査を依頼された時は、和武は二十八か九やったと思いますが、今いう通り、すっかり固くなっているらしいので、どうも子爵家の注文のように運ばンので、弱りました。けンど、漸《ようや》くのことで、南の新地で時々遊ぶらしい事を嗅ぎ出して、馴染の妓《こ》を尋ね当てゝ、客になってちょい/\呼びました。
和武の馴染の妓ちゅうのは、浜勇《はまゆう》ちゅうてその頃はあまり流行らない顔だしたが、まン丸い愛嬌の滴《したゝ》るような可愛い妓だしてな、まア、役徳ちゅう奴で、中々私等の身分で新地で散財するちゅうような事はでけ[#「でけ」に傍点]る事《こ》っちゃおまへんが、費用はなんぼでも出るので、お大尽さんになって、茶屋遊びだす。けンど、根が私立探偵で、遊びが主でのうて、何か探り出そうちゅうのだすから、素性を悟られへんかと思うて、ヒヤ/\しながら遊んでるので、身にも何にもつかしまへん。一ぺん、本まに仕事を離れて、あんな遊びをして見たいと思うてます。
余談は置きまして、この浜勇ちゅう妓が、又中々口が固い。「あんた、えゝ人があるちゅうやないか」と探りを入れると、「あほらしい。そんなもん、あらへんし」と赤い顔もしまへん。「華族さんのお客さんがあるやろ」と訊くと、「ほら、うちかて芸者だす。適《たま》には華族はんも呼んで呉れはります」ちゅう返事で、一向|埓《らち》が開きまへん。けンど、こゝで根掘り問うたら、けったいな人やと警戒されますから、辛抱せんならん、中々辛い事だす。
それでも暫く通ってますうちに、少しは様子が分って来ました。浜勇はどうも和武を嫌っているらしいのだすな。
「華族はんて、あんなもんだっかいな。いやらしいね」と或時吐き出すようにいいました。だん/\探って見ると、とても執拗《しつこ》いンやそうです。浜勇のいう話によりますと、和武ちゅう人は、口前《くちまえ》が上手で、ケチで下品で、とても華族ちゅう肩書の他には、とンと取柄がないちゅう結果になります。そうすると、改心したちゅうても、やっぱり心《しん》は下卑ていて、私の観測が違ったかいな、そうやったら、何ぞ弱い尻が掴めそうなもンやと、悲観して見たり、喜んだり、ちゅう訳です。
所が、そのうちにふと浜勇の口から、和武が以前北の新地で散々遊んで、そこに深い馴染の妓があって、末は夫婦とまで約束したちゅう話を聞きました。
それから私は北の新地へ行きましたな。何しろ、費用はなんぼでも出るし、こんな機会に遊んどかんと、又とでけ[#「でけ」に傍点]るこっちゃおまへんからな。所が、和武が北の新地で遊んだちゅうのは、四五年ももっと以前の話で、若い妓は一向知りまへなんだが、年増芸者は直ぐにうなずいて、「花江はんが可哀そうやわ」ちゅうほど、当時はこの世界で有名な事やったらしいのです。
その花江ちゅう妓は、一旦引いて、二度の勤めで、照奴《てるやっこ》いうてました。もう二十四五で、年増盛りという所、早速呼びましたが、この妓の綺麗なンには驚きました。全く絵に書いた美人そっくりですな。面長で色が白うて、木目が細こうて、何ともいえん品があって、どこに一つの非のうち所がおまへん、之なら華族さんの奥さんいうても、誰でも承知するやろと思われるような女子《おなご》だした。
この女子が又、顔で分るように芸者に似合ぬ人格者だしてな、中々昔の話をしまへん。けンど私も根気ようかゝりましてな、傍《はた》から聞いたり、本人の口からボツ/\探り出したりして、和武との関係を大体の所察することがでけ[#「でけ」に傍点]ました。
和武は東京を飛び出して、関西に来ると間もなく、花江と馴染になったらしいのだす。和武はやっと二十で、花江は未だ十五か十六、むろん舞妓の時代だす。その時分の事をよう知っている者に聞きますと、当時の二人は恰《まる》でお雛さま見たいやったそうだす。私の観測はやっぱり当ってましたンやな。和武ちゅう人は流石に華族の坊ちゃんらしく、大人しゅうて品があって、口数も至って少なかったそうです。全く、一時の迷いでグレたんだすな。きっと悪い奴があって、不良の仲間に引込んだンだすやろ。子爵家で思っているほど、ひどい事をしたンやなかろうと思います。よし、したにせよ、それは本人の意志ではのうて、取巻連のした事やないかと思います。花江との間は、全く客と芸者と離れた本まの恋仲らしかったのだす。花江の方はそれこそ、処女の純情を捧げていたのだすな。
その時の事を述懐して、花江の照奴はつく/″\いいました。「ホンマに考えて見ると夢のようだす。あたいも阿呆やったんだす。思うことの半分は愚か、十分の一もよういわんと、いわば雲の上の花でも見てるように、うっとりと眺めていたンだすわ」
こうして、二人の関係は五年間続いたのだす。その間に花江は一本になり、いつか二人は互に許すようになって、末は夫婦と固く誓うたのでした。
和武の二十三か四の年に、前にいったように、子爵家に和明ちゅう子供が生れて、子爵家でも和武の固うなったのを認めたと見えて、東京へ帰って来いといって来たのです。その時に和武は大へん喜んだそうで。照奴はその時のことをこういうて話しました。
「かーはんはえらい喜びようで、花江、とうとう僕も東京に帰れるようになった。僕は妾《めかけ》の子で、その為にどれだけ苦労したか知れないから、お前を日蔭者にはしとうない。といって、東京の兄さんは固い一方で、芸者なんて、頭から汚れたものだと思ってる。僕は何とかして君を引かそう。そうして、一年なり二年なり、堅気で暮して、然るべき人に口を利いて貰って、兄の許しを得て晴れて夫婦になろう。ね、そうしようね、とこういやはりました。うちも嬉しゅうて、本まにその時は泣きましたわ。うちは今でも、かーはんがその時に嘘をいやはったとは、どうしても思われまへん。その時に恰度山の方へ行く事に定《きま》っていましたんで、かーはんは兎に角山に行って来る。帰って来たら、すぐ東京に行って、今いった通り運ぶよって、いうて山へ行かはりました。それきり鼬《いたち》の道だす。山から帰ったとも、東京へ行ったとも、一言もいうて来ず、むろん姿は見せはりやしまへん。それからもう五年経ちますわ。うちは一辺引きましたけンど、河育ちはやっぱり河で死ぬちゅうてな、二度の勤めだす。諦めてンのかって、諦めるよりしようがないやおまへンか。ホヽヽヽ」と、照奴は淋しく笑いましたが、この頃の言葉でいいますと、一抹の悲哀ちゅいますか、何ともいえん悲しい顔付きをしましたので、私は思わずゾッとしたのを、今でもはっきり覚えとります。
と、この話を聞いた時に、私は之は何か訳があるなと、ピンと来ました。刑事根性といいますかな。どうも物事を真直ぐにとらなくていかんのだすが、殊《こと》にこの時は、何か持ち出そう、と、一生懸命になっている時だすから、尚更ピンと来ました。
それほど喜んでいながら、上京しない、それほど可愛がって、夫婦とまで約束した女子《おなご》の所へ、一辺に寄りつかなくなる。之は何かあるぞと思いました。
それからは暫く、南と北の新地にちゃんぽんに通いました。私の一生のうちで一番|華《はなや》かな時だすな。尤も、賄《まかない》は向う持ちで、仕事の為なんだすからあきまへんけンど。
すると、和武が南の新地に通い出したのは、この二三年のことで、山から帰ってから二三年ばかりは、先生はどこにどうしていたのか、さっぱり分りまへン。あれほど好きだった山登りもふっつり止めてることも発見しました。つまり、和武は山から帰ってから二三年ばかり、全然行方を晦《くら》ましているのだす。
私はその秘密を探り出そう思うて、浜勇と照奴の間をせっせと往来しましたが、一番変に思われて来たンは、浜勇時代の和武と照奴の花江時代の和武とは、ころッと人が違うているのだす。というても顔や形が違うてる訳やないが、性質がえらい違うてます。花江の話では、和武は会うても口数の少い品のいゝ坊ちゃんやったのが、浜勇の所では、口前のえゝ、世馴れた旦那になっています。尤もその間に五年ほど経っていますさかい、年齢の関係でそう変ったのかも知れまへんが、もう一つ可笑しいのは、浜勇は執拗《しつこ》いいやらしい人やと眉をひそめてるのに、花江の話では、そういう事には、さっぱり冷淡やったいうのです。之も年齢の関係やいうたらそれまでだすが、私はどうも変や思いました。が、私がこいつは十分調べて見る価値があると思うたのは、深い馴染の女でのうては知れん身体の特徴の事で、花江と浜勇との話に、大きな食い違いがあることだした。どうも極《きわ》どい話で恐縮だすが、こんな所まで研究せんならん探偵ちゅう商売の辛い所と、苦心せんならん所を、お認め願いたい思います。
そこで、私は和武が山から帰ってから二三年の間どこにどうしていたのか、そこに秘密があるに違いないと思うて、一生懸命に調べましたけンど、こいつが一向に分りまへん。結局山に登った前後の事まで突つめんならンようになって来ました。
和武が二十三四の時に登った山ちゅうのは、乗鞍岳だした。いよ/\こゝへ行きかけた時に、私は泣きとうなりましたな。御承知の通り乗鞍岳は御嶽さんの南にある山だして、御嶽さんよりは鳥渡低いが、三千メートル上あります。北アルプスでは一番南よりの山で、割に登りよいのだそうだすが、どうして、年中雪のある山で、えらいこと、お話しになりまへん。何しろ、今から三十年も以前の話だすさかい、道は悪いし、途中に泊る小屋はなし、私は何の因果で、探偵になったのかいな思いました。南と北の新地で浮かれていた時とは、えらい違いだす。
和武の登った路は、島々ちゅう所から、梓川《あずさがわ》ちゅう川に沿うて、野麦街道から奈川渡《なかわど》に出て、そこから、大野川に行って、山にかゝり、降りる時は、飛騨側の北平《きたゞいら》の雪渓を渡って、平湯鉱山から平湯に出て、それから高山へ出たらしいのだす。私もその通り行くことにしました。
登り路は只《たゞ》えらいだけで、別にお話しはございまへん。えゝ景色やなアと思う所もおましたが、辛い方が主で、私は仕事で登りますのやさかい、仕方がありまへんが、こんな所へ楽しみで登らはるとは、一体どういう気やろと、つく/″\思いました。
和武の登ったのは、もう四五年も以前の事だしたけれども、当時は滅多に人の行く所ではありまへんから、人夫達はよう覚えておりました。けンど、今いいました通り格別の話もなく、無事に頂上につきました。それからいよ/\降《くだ》りだすが、この雪渓渡りちゅうのが、大へんにも何にも、全く生命がけだす。今考えて見てもゾッとするほどで、一ぺん渡ったらどこまで行くか分らず、所々に、クレバスちゅうて、積った雪と雪の間に、大きな亀裂《ひゞ》がおまして、そこへ落ちたら、お終いだす。それに恰度|雪崩《なだれ》の心配のおます時で、えらい時期が悪いのやそうです。そんな事を知らんと、むちゃくちゃに来たような訳で、飛騨の方へ降りる時は、全く何べん生命はないものと思うたかしれまへん。
飛騨へ降りる時には予《あらかじ》めうち合せて置いて、飛騨の人夫に変った訳だしたが、この人夫の口から、和武の事について、新しい事実を聞き出す事がでけ[#「でけ」に傍点]ました。それは何やいうと、こゝで和武の一行は遭難したんだンな。
和武の一行は頂上近くで、突然吹雪交りの雨に会うて、動けなくなったのだす。頂上から北平の雪渓の方へ鳥渡降りた所に、小屋がおましたので、一行はそこへ避難しました。すると、間もなく飛騨の方から人夫も連れずに、たった一人で登って来た男がありまして、小屋に飛び込んで来たそうだす。
一体野麦峠ちゅうのは、信州と飛騨との往還になっておりまして、当時は一日に二人や三人の旅人は通《かよ》ったもンだそうだす。で、そういう旅人は登山家とは違うて、別に人夫を連れたり、特別仕立の服を着たりしまへン。さて、晴れた日に野麦峠を通りますと、そこから乗鞍へは五時間ほどで行けます
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