う。そうしてそれは恐らく焼却して終ったのに違いない。探偵社の方へも、むろん少なからぬ金が、報酬の名義で送られたに相違ないのだ。
 重武の秘密というのは、いずれ詐欺とか横領とか、相当重い罪で、二川家の方で問題にすれば、きっと危なかったものに違いないと、野村は思った。
 然し、交換条件そのものは、可成重武に有利なものだったらしい。というのは、重武はその後東京に引移り、二川家から相当額の支給を受けて、大きな顔をしてブラリ/\と懐手《ふところで》で暮していたらしいのである。
 尤も、彼はお清は苦手らしかった。だから彼女が二川家にいる時分はやゝ遠退いていたが、彼女が去ると、次第に二川家に出入するようになって、今から約十年以前に未亡人朝子が死に、続《つゞい》て間もなく野村の父が死ぬと、もう恐ろしいものがないので、大びらに二川家に這入り込んで、我もの顔に振舞っていたのだった。未亡人の亡くなる前後から以来《このかた》の事は野村にも確乎《しっかり》した記憶があるのだ。

 書類を残らず読み終った時には、夏の日ももう暮れかゝっていた。
 野村は夕暗《ゆうやみ》の迫って来る、庭をじっと見つめながら、父がこの書類を殊更に遺して行った意味を考えた。
 母の言葉では、重明が死んだ時か、又は二川家に変った事が起った時に、開けて見よというのであるから、父は恐らく未だ重武に対して警戒をゆるめず、万一、何か野心を逞うして事件を起した時に、それを阻止するように野村に命じたものであろうか、重明が死んだ時にという方は、彼が死んで終《しま》えば、すべては解消するから、最早秘密はないというつもりなんだろう。重明が自殺を遂げたという事は、単に重明が死んだ場合のうちに入るのだろうか、それとも、二川家に変事の起ったうちに入るのだろうか――
 野村が思い惑っている時に、静かに襖が開いて、母が這入って来た。母の顔はひどく緊張していた。
「二川重明さんから、何か書いたものを送って来ましたよ」
「えッ、二川から」
 野村は吃驚《びっくり》した。母はうなずいて、
「えゝ、遺書らしいですよ。大へん部厚なもので、速達の書留で送って来ました」
 野村は半ば夢心地で受取った。
 野村の父儀造は、二川重明の父重行が急死すると、直ぐ彼の遺書を受取った。今又野村は重明が変死を遂げる途端に、彼から遺書を送られた。父子二代、こういう事が繰り返されるとは、何と奇《く》しき事ではないか。
 書留の書類には添え手紙があった。それは宮野得次という全く未知の弁護士から送られたもので、それにはかねて二川子爵から依頼を受けていたもので、絶対に秘密に保管して、子爵が死んだ時に、直ちに遅滞なく貴下宛に送るべく命ぜられていたもので、今やその命令通り実行するものである事が認《したゝ》められていた。母親は彼女の夫に先代子爵の遺書の送られた事をよく覚えているので、不安そうに、
「やっぱり遺書でしょう」
「えゝ、どうもそうらしいです」
 野村は封を切った。母親は暫く坐っていたが、
「ゆっくり読みなさい」
 野村はそれを見送って、電灯をパチンと捻《ひね》って、送られた遺書を読み始めた。(前篇終り)


          五

 重明から送られた遺書は、一、二、三と三部に分《わか》たれて、それ/″\番号が附してあった。
 野村は順序に従って、先ず第一の番号のつけてあるものを取上げた。日付は書かれていなかったが、内容と前後の関係から推して、重明が雪渓の発掘を始める少し以前らしく、六月の終りか、七月の初めの頃と思われた。

[#ここから2字下げ]
 六月の雨は中世紀の僧院のように、暗くて静かだ。適《たま》に晴間を見せて、薄日が射すと、反《かえ》ってあたりは醜くなる。太陽の輝く都会は僕にとっては余りにど強《ぎつ》い。
 野村君、とこう親しく呼びかけても、或いはこの文章は君の眼に触れないかも知れない。実は僕はその方を望んでいるのだ。然し、兎に角、僕は梅雨に濡れた庭を眺めながら、之を書いている。
 野村君、考えて見ると、僕の人生は六月の雨のそれだった。暗くて静かだった。滅多に太陽を見ることが出来なかった。
 けれども、僕にとっては、却ってその方が気易かった。すべてが白日下に曝《さら》け出されることは、むしろ恐ろしいのだ。
 けれども、僕はいつまでも都合のいゝ世界で、安逸を貪っていることは許されなかった。僕はいつまでも卑怯である訳には行かなかったのだ。
 僕は物心のつく時分から、疑惑の世界に追込まれていた。僕は不幸だった。僕は悲しかった。然し、一面には僕は恵まれていた。考えさえしなければ、妥協さえしていれば、幸福だったのだ。実際にも、そうした状態で長い年月を送って来たのだった。
 然し、僕の身体に巣食っていた疑惑の病菌は、僕の意志の如何《いかん》に係らず、悠《ゆる》りと、然し確実に僕の全身に拡がりつゝあったのだ。そうして、それが一年ほど以前に、俄然爆発したのだった。恐ろしい病気が現われた時に病気が発生したのではなくて、発生そのものは遠い以前にあって、適々《たま/\》何かの誘因で、それが突然現われるものであることは、多くの人の知っていることだが、僕のは全くそれなのだ。而《しか》も、それは恐ろしい業病《ごうびょう》なのだ。
 僕の業病が何であるか、又何の為に君にこんな事を書き残そうとしたかを語る以前に、次の印刷物を読んで呉れ給え。之は或る社交倶楽部でなされた趣味講演の速記を印刷したもので、一般に販売されたものではない。僕は全く偶然に一年ほど以前に手に入れたものだが、あゝ、之こそ、僕の疑惑を固く包んだ結核を押し潰《つぶ》して、ドロ/\の血膿《ちうみ》を胸の中に氾濫させたものなのだ。
 野村君、必ず順序を狂わせないで、読んで呉れ給え。先ず次の切抜の印刷物を読み、それから第三と番号のうってある僕の遺書の続きを読んで呉れ給え。
[#ここで字下げ終わり]

 もし野村が突然この重明の遺書に接したのだったら、彼は恐らく重明がいよ/\発狂したのだと思ったであろう。然し、野村は幸いに父の遺書の方を先に読んでいたので、重明のいう疑惑という言葉に、大体の当りがついていたので、彼(重明)はやはり彼自身の秘密を多少察していたのだな、と今更ながら、彼(重明)の背負されていた重荷について、同情したのだった。
 野村は第二と番号をつけた印刷物を取り上げた。

[#ここから2字下げ]
 お歴々方の前でお話しするなんて、光栄の至りでございますが、馴れないことで、さっぱり上って終《しま》って、旨《うま》いことお喋りがでけ[#「でけ」に傍点]ない次第で、後でお叱りのないようにお願いいたします。只今御紹介下さいましたように、私は大体大阪のもんで、大阪の警察に永いこと勤めまして、辞《や》めてから、砂山探偵事務所に這入りまして、俗にいう私立探偵ちゅう奴で、名探偵などとは飛んでもない。全く見かけ倒しで、お話するような手柄話などはございまへ[#「へ」に傍点]ん。が、まア、取扱いました事件の中で、鳥渡《ちょっと》風変りな、奇妙な事件が一つありますンで、それを話させて頂きます。
 恰度私が砂山さんの所へ這入ったばかりの頃で、今からいうと、二十二三年以前の事でございます。関係者の中で現在生存している方もあるかも知れまへ[#「へ」に傍点]んので、全部仮名にさして頂きますが、三山《みやま》という華族さんの家に起った事件でございまして、闇から闇に葬られましたものの、当時之が発表されていましたら、相馬事件以上に問題になったこっちゃろうと思うとります。
 今申す二十二三年以前の秋だした。死んだ砂山さんが私を呼んで、「どうや、之一つやって見んか」ちゅう話です。「どいう事だンね」と訊きますと、「絶対秘密やが、三山子爵家が相続の事で揉めてるのや」ちゅうのです。私は吃驚《びっくり》しました。何しろ三山子爵ちゅうたら、華族仲間でも有名な金持だすからなア。砂山さんは「費用は何ぼでも出すし、成功したら一万円呉れる約束や」ちゅうて、ニヤ/\笑わはるのです。私はこいつア、余程むずかしい事やなと直感しました。
 段々話を訊いて見ると、先代の和行ちゅう人が、心臓病でポッコリと亡くなって、後に和秋《かずあき》ちゅう五つになる子供がある。之が当然相続人なんだすが、和行の腹|異《ちが》いの弟に和武ちゅう人があって、この人が訴えを起した。何ちゅうて訴えを起したかちゅうと、和秋は和行の本当の子やない、戸籍では本当の子になっとるが、実は貰子《もらいご》を実子のようにして、戸籍に入れたんや、それにはこれ/\の証拠があるちゅう訳なんだす。名門の事やから、検事局でも絶対秘密にするし、子爵家の方ではちゃんと新聞の方に、手を廻していますから、一行だって出やしまへん。世間では誰も知らんが、子爵家ではどうも弱ったらしい。というのが、貰子というのが本当らしいのだンな。貰子いうても、チャンと血統《ちすじ》を引いているのだすが、華族さんには喧《やかま》しい規則があって、親類でも無闇に養子に貰えん、ちゅうのでまあ実子に仕立てたのだンな。
 一つにはこの訴訟を起した和武ちゅうのが、和行のお父さんが芸者かなんかに生ました子で、腹異いの弟になっているが、和行はこの弟が大嫌いで、之に跡が譲りとうない、子供がないと、嫌でもその方に行くちゅうので、そういうからくりをした訳だす。
 和行ちゅう人がこの腹変りの弟を嫌うたのも訳のあることで、和武ちゅう人はでけ[#「でけ」に傍点]損いで、十八の年にはもう酒を呑み、女を拵えて、子爵家を出奔したちゅう、今の言葉でいうと、どえらい不良少年だす。尤も、だん/\探って見ると、気の毒な所もあるので、この人は十一二の年まで母親の所に育ち、それから子爵家に這入ったので、傍《はた》からは始終冷い眼で見られているちゅう訳で、グレ出したのも無理はないと思われる所もあります。
 そこで子爵家では、和武に飽くまで譲りとうないので、どうぞして訴訟を取下げさそうと思ったが、旨く行きまへん。そこで、和武の行状を洗って、どうせ叩けば埃の出る奴じゃから、何か弱点を握って、とっちめてやろいうので、考えて見れば卑怯な事だすが、自衛上止むを得んちゅうので、和武がずっと関西方面にいたので、砂山さんの所へ、素行調査を頼んで来た訳だす。なるほど之なら費用は何ぼでも出す。何か弱点を探り出せば、一万円の報酬というのは、まア当前《あたりまえ》だす。
 私は砂山さんに見込まれたんで、宜《よろ》しおま、と引受けましたが、何でもないと思うたが、之が中々難物だした。というのは、和武は十八の年に子爵家を出て、それから二三年はあちこちと放浪し続けて、めちゃくちゃな生活を送ったらしいが、二十《はたち》頃から急に身持が改って、山登りを始めた。山登りちゅうても、日本アルプスちゅう奴ですな。今こそ日本アルプスちゅうと、女でも子供でも行きますが、その頃は中々どうして、登る人も少く、道が悪いから人夫も仰山連れて行かなならんし、金持の坊ちゃんの道楽みたいなもんだした。道楽ちゅうても、女狂いから見たら、余程上等です。そこで和武も山登りを始めてから、すっかり身が固うなっています。
 一体、十八九で狂い出した者は、眼が覚めるちゅうても、中々二十代ではむずかしいもンで、三十四十になって、やっと改まるのがせい/″\だすが、この和武ちゅう人は、たった二三年の狂いで、二十になるともう素行が改まっています。之はどうも珍らしい事で、私の考えでは、事によるとこの人は心《しん》は固いのやろと思います。子爵家を飛び出す為に、態《わざ》と無茶をやったのか、そうでなかったら、子爵家のやり方が悪いので、一時的に自暴《やけ》見たいになったのか、どっちかやろうと思います。
 尤も子爵家でもその事は悟ったと見えて、和明ちゅう子供が生れた時に、一ぺん勘当を許して、上京せいというて来ています。その時は和武は二十三か四だしたが、一旦は喜んで上京するちゅう手紙を出して置きながら、とうとう行かなかったちゅう事実があります。之が誠に可笑しいので
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