等の世界には、何等の悲劇も齎《もた》らさないのだろうか。人間の世界では、それは断じて許すべからざることだ。それはすべての関係者を、責め苛み、地獄に落すものだ!
 野村君、僕は一体どうしたらいゝのだろうか。叔父が確かに叔父その人に相違ないのなら、その人物の好悪《よしあし》に関係なく、僕は二川家を譲りたいと思う。何故なら彼が正当の相続者なのだから。けれども、もし彼が偽者《イムポースター》だったら。だが、どうしてそれを区別することが出来るのだ!
 もし真《まこと》の叔父が、大雪渓の下に眠っているのなら――あゝ、野村君、僕はあの呪われた速記を読んだ時以来、夜となく昼となく、この妄念につき纒《まと》われたのだ。
 僕は、仮令《たとえ》それが気違いじみていても、いや、気違いそのものの行為であっても、僕は乗鞍岳の雪渓を発掘せずにはいられなかったのだ。むろん、僕はその前に、乳母であり、僕の実母であった高本清《たかもときよ》を探した。然し、生きている筈なんだが、彼女をどうしても尋ね出すことが出来ないのだ。僕に残された方法は、たった一つだったのだ。
 野村君、僕が雪渓発掘の準備にかゝると、叔父重武は表面は何の動揺も示さなかったが、それ以来は、彼の見えざる看視《かんし》が、見えざる触手が、僕の周囲で犇《ひし》めいている事を僕ははっきり感ずるのだ。決して、それは僕の神経衰弱や、強迫観念のさせる事ではないのだ。
 野村君、僕はどんな困難と闘っても、やり遂げて見せるつもりだ。雪渓の発掘が失敗に終ったら、又別な方法を考えるつもりだ。一生かゝっても、無一文となっても。気違いと嘲けられても、馬鹿と罵られても、叔父が真の叔父か、偽者《イムポースター》であるか、きっと区別をつけるつもりだ。
 野村君、然し、叔父の眼は光っている。彼は僕よりも遙かに狡猾で、冷血で、そして、僕よりも、より絶望的《デスペレート》である筈だ。僕はそれを恐れているのだ。
 野村君、僕が生前僕の心境、僕の決意を、|打明けて《フランクリー》に話さなかった罪を許して呉れ給え。僕自身はこれが遺書になって、君の眼に触れる場合のない事を望んでいるのだ。然し、君は未知の弁護士から、これを僕の遺書として受取るかも知れぬ。その時こそ、僕が尋常の死に方をした時ではない筈だ。
 仮令《たとえ》僕が尋常でない死に方をしたといっても、僕は君にどうして呉れとは要求出来ないし、又要求もしない。どうか、君の思う通りにして呉れ給え。
 それから特につけ加えて置くが、僕は近頃不眠症が嵩じて、毎夜催眠剤を執っている。然し、断じて自殺などはしないから、自殺どころではない、重武との勝負がすむまで、うっかり病死も出来ないのだ。その点はしっかり考慮に入れて置いて呉れ給え。
[#ここで字下げ終わり]


          六

 父の遺書から二川重明の遺書へと読み続けた野村は、昂奮から昂奮への緊張で、すっかり疲労して終った。
 重明が何故乗鞍岳の飛騨側の雪渓の発掘などと途方もない事を企てたのか、はっきり知る事が出来た。彼の行為そのものは気違いじみていたけれども、それは健全な頭から考え出されたものだった。彼は決して発狂したのではなかった。又、自殺を企てるような精神|耗弱者《もうじゃくしゃ》ではなかった。それ所ではない。彼はその遺書で、堅く自殺を否定しているのだ!
 然らば彼の死は?
 野村は今までに何度となく感じた所の、重明に対する友情の足らなかった事を、又もや強く感じるのだった。生前もっと相談相手になればよかった。こちらがもっと親身にすれば、彼の方だって、きっともっと打明けた態度になったであろう。生前にこの事実を知ったら、何か旨い忠告が試みられたかも知れない――が、すべては後の祭りだった。
 野村は、彼を信頼して、死後遺書を送って来た重明に対して、どうしたらいゝだろうか。
 すべては翌日の問題として、その夜は眠られぬまゝに明かした。

 警察或いは検事局に告発するという事が、翌朝野村の頭に浮んだ最初のものだったが、彼は少し躊躇した。そうした官署へ告発すべく、内容が余りに怪奇で、曖昧で、確証が少しもないのだ。私立探偵を、と考えたが、之は適当な人も思い浮ばなかったし、効果もどうかと思ったので、直ぐその考えを止めた。
 で、結局、野村自身が探偵に従事することにした。

 野村は二川邸に向った。一度聞いた事ではあるが、もう一度委しく重明の屍体発見当時の事を聞かなくてはならないのだ。
 昨日解剖の為に屍体が大学へ持って行かれたので、予定が一日延びて、いよ/\今夜最後の通夜をして、明日は荼毘《だび》に附する事になっていた。
 重武は葬儀委員長という格で、相変らず何くれと采配を振っていた。野村を見ると、
「やア」
 と、愛想よく挨拶《あいさつ》したが
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