暮せるようにしてやろうと思っている。もしそれまでに僕が死ねば、朝子がそうするだろう。
この遺書の事は朝子に全然いっていない。だから、大へん勝手な願いであるけれども、何か事が起って、君の力を借りなければならなくなるまで、君はこの事は知らないふりをしていて呉れ給え。むろん、そういう事をする君ではないと思うが、僕は重明の夢を破りたくない。彼は朝子を母と信じているのだ。朝子も本当に我子のように思っている。
出来るならば、この秘密は永久に葬って終《しま》いたいと思う。今までの関係者以外に洩れないで、関係者達もそのまゝ墓場へ持って行けるように、僕は心の底から祈っているのだ。
万々一、何か起った時に、頼みにするのは君一人だ。その時こそ、どうか朝子の力になって、世間に洩れないように処理して呉れ給え。
生前は我まゝばかりいって済まなかった。死後も尚君の友情に頼らなくてはならない僕を哀れに思って、許して呉れ給え。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]二川重行拝
二川重行の告白書を読み終った時に、野村は恰度重明の自殺の報を見た時と同じような、いい現わすことの出来ない焦燥を感じた。
初め母親から父の遺書を渡された時に、それが何か二川家の秘密に関するものであることは直ぐ察せられたし、年代順に読んで行って、それが重明に関するものであることも大体は推察された。然し、重明が父の重行によく似ていた点や、重行が溺愛していた点から、重行の子である事は疑わなかったのだったが、何ぞ図らん、彼は全然他人の子であった。而《しか》も、乳母として、お清さんと呼び、確か重明が十か十一の年までまめ/\しく仕えていた所の女が、彼の実母であったのだ!
野村の脳裡には、蒼醒めた顔をして、言葉少なに、然し、重明を、十分愛していた母の朝子の姿と、健康そうな生々《いき/\》とした、然し、大へん優しくて、重明に対して忠実だったお清の姿とが、重なり合い、混り合った。
(重明はこの事を知っていたのだろうか)
この事が十分の秘密を保たれていた事は疑うまでもない。重明はむろん関係者の口から秘密を語られた気遣いはないであろう。然し、重明は感じはしなかったろうか。
幼少の時ならば知らず、相当の年齢に達した時には、母と仰《あお》いでいる人が、自分の生みの母親でない場合、その事は、何となく察せられるものではなかろうか。少くとも、重明はそんな疑いを持って、悶えていたのではなかろうか。
然し、重明は真逆《まさか》父を疑ってはいなかったであろう。重行の子と信じていたに違いない。又、乳母のお清を真実の母だなんて、夢にも考えていなかったろう。むろん、彼は十か十一の時まで彼の側にいた乳母を忘れはしなかったろう。時々は思出したに違いない。そうして過去の甘酸ぱい思出に耽った事であろう。然し、恐らく一回だって、真実の母として考えた事はないだろう。
野村は暫く先の方を読むのを忘れて、感慨に耽った。それはよく世間にある例だった。二川家の場合は、それが華族という約束に縛られて、表向き養子にすることが出来ず止むなくやった事であるが、世間では表向き養子に出来るにも係らず、子供が成長してから可哀想だという意味で、貰い子を自分達の真の子のように入籍して終うのだ。然し、それが果して真の子供を愛する所以であるかどうかは疑問だ。子供が教えられたり、悟ったりして、真実を知った場合は、今まで隠していたゞけ、反《かえ》って悪い影響が残るし、そうはっきりしない場合、子供が疑念を持ち、それに悩まされ続けるような事があったら、それは子供を終生苦しめるものではないか。然し、或場合には、子供は何の悟る事なしに、何の疑うことなしに、真の両親と信じて幸福であり得るかも知れぬ。世の多くの人達は、そういう幾パーセントかの幸福であり得る場合に望みをかけて、戸籍法違反を敢《あえ》てするのかも知れない。
世間に、より多い例は、両親のうち片親が――大抵は父親であるが――真実の親であって、一方の親はそうでないにも係らず、その両親の真の子として届ける事である。この場合は、前の場合よりも、より複雑な関係があり、そうしなければならない事情は、より切実であるといえる。然し、そうしたからくり[#「からくり」に傍点]は子供の将来に悲劇を齎《もた》らさないとは断言出来ないであろう。
ふと気がつくと、午後の日ざしは大分傾いて、割に涼しい風が吹いていたにも係らず、野村の身体は、恰《まる》で雨にうたれたかのように、汗でグッショリだった。然し、彼はそれを拭おうともせず、次の方に読み進んだ。
二川子爵の告白書の次は、父の手記と、告訴状や抗告書などの写しとの錯綜だった。
之で見ると、二川家では早くも悲劇が訪れたらしい。
重行が死んで、五歳の重明が家督相続届を
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