彼は飽くまで自分を短命なものと信じている。
朝子さんの献身的態度にも敬服する他はない。流石《さすが》は公家の出である。病弱の身体で、あの気紛れな――今は大へんよくなったが――癇癪持ちの夫に仕えて、些《いさゝか》の不満も現わさず、唯々諾々として忠実を守っている姿は涙ぐましいものがある。兎に角、立派な夫婦だ、それに子供は出来たし、もう重武などを少しも恐れる所はないだろう。そういえば、重武は近々上京するという手紙を寄越したそうだが、仮令《たとえ》彼が東京で住む事になっても、二川家には大した波瀾は起らないだろうと思う。
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それから暫くは、二川家は泰平だったらしい。重明が歩き出すようになり、片言を喋るようになる時分に、野村はその遊び相手として、度々二川家に行った訳である。その時の事はむろん野村の記憶にはないが、時々はひどく掴み合ったそうで、成人してからは逆になったが、当時は二川の方が肥っていて力が強く、野村の方が分《ぶ》が悪かったらしい。掴み合いが始まると、むろん乳母はあわてゝ仲裁したに違いない。
重武が上京したかどうかについては記録はないが、重行の葬式当日重武がいた記憶が野村にはないから、上京しなかったか、上京しても直ぐ又旅に出たものと思われるのだ。
かくして、四五年の平和が続いた後に重行の急死となったのだった。
野村はホッと一息した。そうして、次の書類を取上げたがそれは重行が野村に送った遺書だった。
四
二川重行の遺書は彼の死後、直ぐに野村の父に送られたものらしく、読んで行くうちに、それが思いがけなく重大な告白だったので、野村は次第に昂奮を覚えて来た。
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親愛なる野村儀造君
君も知られる通り、僕は心臓に故障があるから、いつ死ぬか分らぬ。実は死ぬまでにこの告白を君にだけして置くべきであるが、僕にはそれが出来なかった。本当の事をいえば、僕は死んだ後も、君にこの事を知られたくはないのだ。然し、どうかすると重武が薄々感づいたかも知れぬ。仮令《たとえ》今は感づかなくても、あゝいう奴だから、いつ感づくか知れない。それも僕が生きていれば、大して恐れはしないが、死んだ後になって、どんな難題を朝子に吹きかけるか知れぬ。その時に朝子の力になって呉れるのは君一人だ。だから君にはどうしても隠すことは出来ない。この遺書は或る人に託して、僕が死ねば直ぐ君の手許に届くようにして置く。生きているうちに告白の出来なかった僕の卑怯を許して呉れ給え。
野村君、実は重明は朝子の子ではないのだ。むろん僕の子でもない。全く他人の子なんだ。
他人の子といっても、血は続いている。いつか君と口論をしたのを覚えているだろう。あの時に話に出た僕の祖父の弟の曾孫《そうそん》なんだ。
祖父の弟は分家して二川姓を名乗り二男二女があった。僕は出来得る限り男系を辿って行ったのだが、長男は二川家を継いだが、その子供は女ばかしで、僕などと違って、二川家に執着はなかったと見えて、みんな他家に縁づけて終《しま》った。従って、二川家は絶えたわけである。
二男の方は京都でも有数の旧家で、当時大きな呉服店だった高本という家に養子に行った。そこで彼は一男三女を挙げた。どうも二川の血統には男が少いのは奇妙である。その男が高本安蔵《たかもとやすぞう》といって、当時は未だ生きていた。この男は僕の再従兄弟《またいとこ》に当って、法律上の親族ではあるが、戸主であるし、僕より年長で、養子にすることは出来ない。又しようとも思わない。
高本家は祖父の弟が養子に行った当時は、頗《すこぶ》る盛大だったが、その後間もなく家産が傾き始め、長男の代にはもういけなくなった。然し、未だ旧家の余勢で、その子の安蔵の所へは、公家の某家から片づいている。然し、家の方は僕が発見した時にはもう身代限りをして跡かたもなく、陋巷《ろうこう》に窮迫しているという有様だった。而《しか》も、安蔵は病の床に伏し、妻の清子は身重だった。
二人はだから、僕の願いを直ぐ聞入れて呉れた。
他には別に面倒はなかった。
先ず朝子を妊娠と称して、京都にやり、高本の子供の生れるのを待っていた。
幸か不幸か、安蔵は間もなく死んだので、この事を知っているのは、僕達夫妻と、お清と、たった一人の産婆だけである。産婆も然し、僕達の届出については全然関知しない。それに、今や、君を加えた訳である。
お清は既にお察しの事と思うが、重明についていた乳母である。重明は生みの親に育てられたともいえるのだ。血続きとはいいながら、重明は僕にそっくりだった。その事が僕をどんなに喜ばしたか、君はよく知って呉れている筈だ。
お清は余り長くつけて置いては悪いと思って、適当な時機に暇を与え、一生を楽に
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