野村はそんな浮説《ふせつ》を全然信用しなかった。というのは、二川重明は鉄道とか温泉とか鉱山とかいう企業などには、少しも興味を持たない人間なのだ。又、登山などには、全然趣味がなく、恐らく五百メートル以上の山に登った事さえないだろうと思われるのだ。然し、野村にも、そんな男が何故急に日本アルプスの雪渓を掘り始めたかという理由は全然分らなかった。
だから、第二の質問には、単に分らないと答えるだけだった。
第三の質問は一番不愉快だった。この質問を受けると、野村はハッとせざるを得なかった。
何故なら、野村も実は二川が発狂したのではないかと、私《ひそ》かに危懼《きぐ》の念を抱いていたからだった。
二川は以前から痩せた方で、変に懐疑的なオド/\した人物ではあったが、色白の細面にはどこか貴族的な品位があり疑り深そうな大きな眼のうちには、同時に考え深そうな哲学者の閃めきがあり、時に物怯《ものお》じのする態度のうちにもどことなく悠揚迫らざるものがあったが、この二三年来、それらのものが全く一変して終《しま》った。
猛烈な不眠症に陥ったのが原因らしいが、頬はゲッソリとこけて、頭ばかりが大きくなり、眼は落着なくギョロ/\と動いて、一種異様な光を発し、絶えず何者かに怯やかされているようにビク/\しているのだ。
これらの症状は明かにひどい神経衰弱で、その行為にも言葉にも、別に甚《はなはだ》しい矛盾は現われなかったので、野村は幾分安心していたのだったが、乗鞍岳の雪渓を買占めて、発掘し出したという事になると、どうも発狂したのではないかと思わざるを得ないのだ。
真夏になっても消え残っている広さ数十町歩、深さ幾丈だか分らないような大雪渓を掘るという事は想像以上の難事業で、到底人間業では出来ることではないのだ。我国には正しい意味での万年雪というのはないそうであるが恐らくその辺の雪は数世紀間溶ける事を知らないでいるのだろう。千古《せんこ》の雪の下の神秘を探るという事は、人間に許されない事ではなかろうか。又、二川は神秘の扉を開いて、そこに何を見出そうとするのだろうか。
家人の反対も断乎として退け、唯一の友達の野村にさえその目的を洩らさないで、この無謀の挙を敢行する二川は、発狂したとしか野村には考えられないのだった。
第三の質問には、野村はこう答えた。
「うん、気違いじみているよ。だが、何か目的
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