私はそこで、グイグイと酒を飲んでゐた。『今度はうんと、勉強すらあ』なぞと、時々蚊帳の中の、よくは見えない弟に対して話しかけながら、私は少々無理にお酒を飲んでゐた。
 それでも今晩立つのだといへば、若々しく、私は東京の下宿屋の有様なぞをも、フト思ひ浮かべたりするのであつた。弟にはさぞ羨しいことだらうと、思つてみては遣瀬《やるせ》ないのであつたが、こんな場合にも、猶生活の変化は嬉しいのである。
 だがまた、東京にゐて何時売れるともない原稿を書き、淋くなつては無理酒を飲む、しがない不規則な日々を考へると、ガツカリするのであつた。
 羨しがることはないよ。俺の此の八年間の東京暮しは、かう/\かういふものだと、云つてやらうかとも思つたが、また云ふ気にもなれず、母が聞いては心配するばかりだと、黙つてしまつた。
 そのうちに、なんとも弟の顔が見たくなつたので、蚊帳の中に這入つて行き、『では行つてくるからな』とかなんとか、云つた。
 やがて母が俥が来たと知らせた声に、弟は目をパチリと開けた。『あんまり酒を飲まないやうにしてくれ。』といふなり弟は目をつむり、もう先刻《さつき》から眠つてゐるもののやうにな
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