と云ふのであつた。放つて置かれゝば何時か自然に取れます。手術して取れないこともありませんが、痕跡《あと》が残りますしそれに、さうお邪魔でもないでせう。』
弟は私がそれを聞いてる間、ズツと私を視守つてゐた。医者はもう一度弟の方を向き、『ではまた明日《みやうにち》。お静かにしていらつしやい。』弟は医者の顔をジツと視てゐるだけで、一言も云はなかつた。
私は何か、心残りであつた。死を観念させられてゐる弟の前で、一寸した※[#「月+俘のつくり」、第4水準2−85−37]腫《はれもの》のことなぞ持出したことはと、そんな気持もするのであつた。
医者が帰つた後で、うつかりまた耳の下へ手をやつてゐるのを、弟の眼がマジマジとするので気が付いて、急に手を下ろすと、一瞬弟の眼は後悔の色を浮かべるのであつた。暑い日で、扇風器が廻つてゐたが、医者が帰つたので、少しそれをとめてくれと弟は云つた。やがてぐるりと寝返りをうつて、向ふへ向いたが、その時の頬のあたりは、今でも思ひ出すと涙が滲む。
九月八日の宵であつた。私はその夜の汽車で東京に向けて立つことにしてゐた。弟の寝てゐる蚊帳《かや》のそばにお膳を出して、
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