文明と堕してしまつた。
今や世界は目的がない。そして目的がない時に来る当然のことゝとして、心そのものよりも、その心が如何見られるかといふことに念を置いて生きてる者等ばかりとなつた。人々は皆卑屈になつてもう卑屈が卑屈とみえないで、寧ろ思慮あることのやうに考へられるといふふうにまでなつてゐる。尤も現在の我が国では、その卑屈を思慮あることのやうに考へる人さへ、僅少なのであつて、他の人達は考へるといふことそのことをだにしないのである。それでゐてその人達が物を言ふ。何を言ふかといふと形容詞的な余りに形容詞的なことか、それとも学問的な余りに学問的なことなのである。而もそれらを極めて不誠実に、生活的意義から全く離れて。又、偶々生活的意義といふ言葉を気付いた人がゐると、その人は生活のことを生活的意義を離れて話してゐたりするのである。
総じて陰気くさくつて而もバラ/\だ。悪賢い小商人がいちばん活々して生きてゐるといふ有様だ。
こんな中では私は、無鉄砲少女が好きなんです。
× × ×
或る一つの内容を盛るに最も適はしい唯一形式は、探し得られる。けれども、内容といふものは絶えず流動してゐる。そこで形式論はすべて無益となる。――余りに実利的な一般人が、形式論(原理)と実地とを直接連つたものと考へたがる。それが不可ない、たゞ実地に対する賢い良心は「形式論」の闡明を希ふものであるから形式論は、考へられなければならない。
だが、そんな理窟は誰でも分る。分つてゐてなほ分つてゐないと同様な態度で生きてゐなければならないかゞ分らなければならない――それは人が卑屈になるからだ、必要以上に陰気になるからだ。といふのは形式に呑まれるからなのだ、つまり根性が、なんだか外に理想がありさうに思ひ出すからだ。オーソドックスになるからだ。概念的になるからだ。生命に座標軸を課すからだ。つまり甘えて物を考へるからだ。不真面目になつてるからだ。蓋し、物質のキラビヤカさが人々の卑しさを刺戟するので、卑屈になつたからなのだ。疑惑を抱いたからだ。
序でに言ふが、物質文明にいちばん卑さを刺戟された奴が、すつかり物質の中に逃げて行つて、その中でばかり生きてゐるために卑しいと一寸見做しがたくなつてゐる奴が珍しくない。かういふ奴が多数をなした時に、卑屈が卑屈と見えなくなつたりしてゐる
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