生と歌
中原中也
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)技《わざ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)バラ/\
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古へにあつて、人が先づ最初に表現したかつたものは自分自身の叫びであつたに相違ない。その叫びの動機が野山から来ようと隣人から来ようと、其の他意識されないものから来ようと、一たびそれが自分自身の中で起つた時に、切実であつたに違ひない。蓋し、その時に人は、「あゝ!」と呼ぶにとゞまつたことであらう。
然るに、「あゝ!」と表現するかはりに「あゝ!」と呼ばしめた当の対象を記録しようとしたと想はれる。恐らく、これが叙事芸術の抒情芸術に先立つて発達した所以である。仮りに抒情芸術が先だつたといふ歴史上の論証があがつたとしても、近代に至るまで、抒情芸術と称ばれてゐるものゝすべては叙事による抒情、つまり抒情慾が比較的叙事慾よりも強かつたといふに過ぎない。
然るにかゝる態度によつて表現がなさるゝ場合、表現物はそれの作される過程の中に、根本的に無理を持つと考へられる。何となれば、「あゝ!」なる叫びと、さう叫ばしめた当の対象とは、直ちに一致してゐると甚だ言ひ難いからである。「見ることを見ること」が不可能な限り、自己の叫びの当の対象を、これと指示することは出来ない。たゞそれが可能に見えるのは、かの記憶、或は経験によつてゞある。
かくて、表現は、経験によつて、叫びの当の対象と見ゆるものを、より叫びに似るやうに描いたのである。かゝる時生活は表現(芸術)と別れ勝ちになるのだつた。言換れば叫びは無論生活で、その生活に近似せしめる習練――技《わざ》の習得が芸術となるのだつた。そして芸術史上の折々に於て、殆んど技巧ばかりが芸術の全部かの如き有様を呈した。その間にあつて、たゞ叫びの強烈な人、かの誠実に充ちた人だけが生命を喜ばす芸術を遺したのである。音楽に於けるその著しい例がベートーベンである。正にドビュッシイが言ふやうに、ベートーベンはデスクリプションした。然るに彼の叫びの強烈さがデスクリプションを表現的にしたのだ。
「見ることを見ること」が不可能な限り、自
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