とみえ、真面目に何かをやつてゐる者は驢馬なのである。おまけに熾んな社交意識が伴つて、如何に虚栄を演ずるかといふことの中に人格の価値があるかの如く思ひ做される、さういつた風潮は日々に激しい。それは恰度芸術にあつて、表現方法をばかり問題にされることの生活的方面での現れである。)
力なきものは自ら萎む。漸くにして彼等も倦怠を覚えてゐる。――然らば如何にすべきか?――彼等は迷つてゐる。そして世界中が迷つてゐる。やがてその中から低い声が一つした。観念論に行けと。――その声にともかくも好感を懐いた人達の或者は、感傷的な道徳家となり、他の或者は批評主義派になつてしまつた。
それ等さへまた倦怠に入りつゝある昨今、芸術界が経済学だの歴史だのといふことを気にしはじめてゐることは、随分ありさうなことで、そして同情さるべき事情である。
この情態が面白からぬことを気付く頃に現れる次の現象は、凡そ私に分る所を以てすれば、心理的に病弊を究明しはじめることであらう。
然し、それら後から後から案出される※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]きの種々は、結局失敗に終るだらう。
これらの失敗の原因が何であるか、それを確言することは困難であるが、辛じて私に言へることは、世界が忘念の善性を失つたといふこと、つまり快活の徳を忘れたといふことである。換言すれば、世界は行為を滅却したのだ。認識が、批評が熾んになつたために、人は知らぬ間に行為を規定することばかりをしだしたのだ。――考へなければならぬ、だが考へられたことは忘れなければならぬ。
直覚と、行為とが世界を新しくする。そしてそれは、希望と嘆息の間を上下する魂の或る能力、その能力にのみ関つてゐる。
認識ではない、認識し得る能力が問題なんだ。その能力を拡充するものは希望なんだ。
希望しよう、係累を軽んじよう、寧ろ一切を棄てよう! 愚痴つぽい観察が不可ないんだ。
規定慾――潔癖が不可ないんだ。
行へよ! その中に全てがある。その中に芸術上の諸形式を超えて、生命の叫びを歌ふ能力がある。
多分、バッハ頃から段々人類は大脳ばかりをでかくしだしたのだ。その偏倚は、今や極点に達してゐる。それを心臓の方へ導かうとする、つまりより流動的にしようとして、十九世紀末葉は「暗示」といふ言葉を新しく発見したのだつたが、それはやがて皮膚感覚ばかりの、現に見る
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