云へるであらう。だから東洋のものに対する時よりも、もつとずつとゆつたりとした気構へが要すると思はれる。況や、風俗は異つてゐるに於てをや。
 猶、俳句のやうに微妙なものはないと云はれるが、私自身も随分さう思ふが、だから西洋の詩は微妙でないかといふにさうではない。――因みに、各民族の古い時代には、俳句の如く短詩形があり、それがまた非常に微妙なものであつたといふことを、俳句がそれに相当するといふのではないまでも、一応想起されたいのである。例へば印度古詩。又、旧約聖書の「詩篇」に於いて、「ヤーエ」と呼ぶ時に、ヤーエといふ一単語の音色が既に今では感じ切れない程の微妙な意味をも有してゐたであらうことなぞ、一応想起されたいのである。
 話は元に戻る。よく読まねばならぬ。思念を現はしてゐるその様子を会得しなければならない。さもない限り、思念の深い人にはなるとも、詩人とはならない。此の事は、まだ詩といふ型がハツキリしてゐると云へない現状に於いて、十分に注意される必要がある。つまり、絵といふからには絵具や画布、大工といふには槌や鉋、まづその道具[#「その道具」に傍点]ですることが面白いのでない限りそのこと
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