鑢《やすり》の音よ、だみ声よ、
老い疲れたる胃袋よ、
雨の中にはとほく聞け、
やさしいやさしい唇を。

     *

煉瓦の色の憔心《せうしん》の
見え匿《かく》れする雨の空。
賢《さかし》い少女の黒髪と、
慈父の首《かうべ》と懐かしい……




春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲《あが》る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。

あゝ、しづかだしづかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸|摶《う》つた希望は今日を、
厳《いか》めしい紺青《こあを》となつて空から私に降りかゝる。

そして私は呆気《ほうけ》てしまふ、バカになつてしまふ
――薮かげの、小川か銀か小波《さざなみ》か?
薮かげの小川か銀か小波か?

大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。


春の日の歌

流《ながれ》よ、淡《あは》き 嬌羞《けうしう》よ、
ながれて ゆくか 空の国?
心も とほく 散らかりて、
ヱヂプト煙草 たちまよふ。

流よ、冷たき 憂ひ秘め、
ながれて ゆくか 麓までも?
前へ 次へ
全40ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング