あるがために風景がよく見えるという位の家が殆《ほと》んどない。これは何も芦屋に限らない、現代日本の近郊の大部分は同じ事ではあるが。
それにつけても羨《うらや》ましいのはモンテカルロ辺《あた》りの古風な石造の家や別荘の積み重なりの美しき立体感である。マッチの捨て場所のない清潔な道路である。
家ばかりを幾度描いても描き切れない豊富な画材が到る処に転がっているのだ。
でも私は、あまりいい天気の日に、何かたまらなくなって、カンヴァスを携げて山手の方へモチーフをあさりに行く。そしてその度びに何か腹を立て、へとへととなって疲れて帰ってくる事が多いようである。
その腹立ちを直すために、神戸へ出かけて、ユーハイムの菓子でコーヒーをのみ、南京街で新鮮な野菜を求めて帰ってくる。
私の絵に静物や裸女が多くなるのもやむをえない影響であるだろう。
私の家を門のそとから眺めて見ると、温室があり花壇があり様々の草花が咲き乱れている。その少し奥にはガレージがあり、二台のオートバイが並んでいる。それから小さな亭座敷《ちんざしき》があり、松の並木があって、私の家の玄関が見えその奥づまりに画室がある、という極く見かけは立派な光景である。
御宅の先生はオートバイに乗られますかと驚いて訊《き》く人がある。勿論、ヴラマンクはオートバイで写生に走るというから、日本にだって一人位いはさような影響を蒙《こうむ》る画家が出ても差支えなかろうとは思うが、実は宅の先生はまだ自転車にも乗れないのだから残念だ。
私自身は私の家の内から外を常に眺めて暮しているから、花壇も温室もガレージも、オートバイも皆、私のものではない事がよくわかっている。そして、ただ私のアトリエだけが漸《ようや》く自分自身のものであるに過ぎないのだ。
本当は、私は自分の衣食住に関しては、非常に気むずかしく、神経質で気ままで、自分の考え以外の事は決して許したくない性質を持っているのであるが、自分にはそれを徹底させるだけの資力も根気もないので、何もかもをあきらめて衣食住の一切は成り行き次第の流れのままにまかせてある。
万一、明日大地震が起って、直ちに吾人《ごじん》は穴居生活に移らねばならぬとあれば、私は直ちに賛成する。
私は橋の下でも、あるいは大極殿《だいごくでん》の山門の中でも決して辞退はしないつもりである。水は方円の器に従うが如く、私はそれに応じての私の身を置くに適当な何かを以て飾り立て、ぼろぎれを張り廻《めぐら》し、工夫を凝《こら》して心もちよく住んで見せるだけの自信はあると思っている。要するに乞食性だといえばいえる。
衣類、持ちものにしても、私の好みの日本服、好みの洋服、好みの外套《がいとう》、好みの帽子、好みの宝石、好みの時計、好みの自動車といいかけると限りなく私の注文は心の奥に控えている。
だがしかし、私は万事を自分の心のままに出来得ないものならば、最早や何一つとして注文して見る必要はないと考えている。だから、手当り次第の勝手気ままの不統一で通す事にしている。一度パリで買って私の気に入ったパンタロンは、よそ行きも常も婚礼も朝から晩まで着通して、今なお着用しているがさすがに、縞《しま》が磨滅して来た。惜しいものである。
終日、洋服で通すという不粋な事は私だって本当は好きだといえないが、私は洋服を意地からでも着て暮す。
勿論、私の今の家には座るべき座敷がないのだから、和服では裾《すそ》が寒くて堪《たま》らない上に、私のやせぎすは、腹が内側へ凹《へこ》んでいるために、日に幾度ともなく、帯を締め直す煩《はん》に堪えない事もあるのである。
私がもし、急に明日から金閣寺で暮すという身分にでもなったとしたら、私は直ちにパンタロンは紙屑屋へ売飛ばして衣冠束帯で身を固めるであろう。
先ず花の下には花の下の味があり、鉄管の中にはまた格別の世界があるのに違いない。何に限らず住み馴れたらまたなつかしい故郷となるものだろうと思う。
今の処、何んといっても私が思う存分の勝手気ままを遠慮なく振舞い得る場所はただ一枚のカンヴァスの上の仕事だけである、ここでは万事をあきらめる必要がない。私の慾望のありだけをつくす事が許されているのだといっていいと思う。
画家というものがどんな辛《つら》い目に会っても、悪縁の如く絵をあきらめ得ないのも無理のない事かも知れない。
芝居見物
大阪の芝居見物は何かものを食べながら、話しながら、飲みながら、その間に時々舞台を見ているようである。もの見遊山というのは芝居見物のことだと私は子供の時から思っていた。
私の父は芝居、遊芸道楽に関することは何から何まで好きであったから、私は人間の心もちも出来ていない幼少の時分から芝居へはしばしば出入りした。そして何かたべながらちょいちょいと舞台を眺める教育を受けたのである。だから私は充分大人となってから後も、芝居というものは何か退屈をきわめた時に芸妓を連れて遊びに行く場所だとばかり思っていた。芝居の中心は舞台の方になくてわれわれ見物人の方にあるようだった。だから今私が小さい時のことを考えても、舞台で何を演じていたかということはあまり記憶に残っていない。ただ時に大きな月がおりて来たり、波が動いたり、その波と波との間を何か美しいお姫様が流れて来たり、それが助けられたり、馬に乗せられた罪人の娘が引摺られて来たり、寒い時に役者の素足がふるえていたり、切腹したり、雪が降ったり癪を起こしたり、刀を抜いたりした断片を覚えているだけである。それが何という芝居でどんな筋であったかも皆忘れてしまっている。それよりも私は私の側に並んでいた芸妓の話や、父の顔や、女将の肖像、盛られた御馳走の方を多く記憶する。あるいは時には芸妓の代りに母と女中であったりしたこともある。
私はその後、学校生活のためや、肝腎の父が死んだりして十年以上も殆ど芝居を見ずに暮してしまった。
今度は父の代りに私は友人に誘われて再び芝居を見るようになった。十何年間芝居というものを見なかった私は、随分進歩も変化もしたことだろうと思って出かけたところが、不思議なことにも芝居の中はやはり昔のままの姿で見物人は私の父と同じ真似をしていた。芸妓が何かたべながらわさわさとしていて、舞台では十幾年前と同じ役者が同じ顔をして同じせりふを申し上げていた。私は芝居の国では地球は回転しないのかと思った。
芝居だけは十年位、欠席していても決して時代に遅れないのだという自信を私は得たものである。なるほどこの芝居なら、せめて何か食いながらでなくては見ていられないかも知れない。芝居見物というのはあの狭い桝の中で家族親類は懇親を結び、芸妓は旦那と、男は女と、懇親を結ぶ場所であり、そして舞台では余興をやっていると見る方が本当かも知れない。
その代り舞台では、いかに名人といえども見物人が背を見せて勝手な話に耽り、勝手にめしを食い酒を飲んでいるのだから、今必要なせりふを申し上げましょうと思っても、少しも見物人へ通じないのだから、まったく何をする張り合いも抜けてしまうことだろう。かくして役者と見物人はお互いに殺し合うのではないかと思う。
以来私は時々それでも芝居は見に行く。しかしそれは疲れたらタクシーへ乗る心もちで芝居へ行く。煙草の代用、カフェーのつもりで行くというきわめて不埓な見物人である。まさに大阪的見物の致し方である。だから舞台では何をしていてくれても一向差し支えはないのだ。手品でも旧劇でも新劇でも浄瑠璃、落語、何でもよいのである。要するに見物人の懇親を邪魔さえしなければよいのである。そして役者は好男子であればいい。
しかしながらこれでは名人も芸を磨く気にはなれないだろう。その点東京の見物人はもっと本気な意気を持っていると思う。私は名人を作るのは見物人の力だとさえ思っている。見物人が舞台へ背を向けては万事おしまいだといっていい。名人は決して現れないだろう。
私は東京で吉右衛門を見て、それから大阪でそれを見た。すると大阪では吉右衛門が半分しかないように感じられた。それは役者の不足のためかも知れないが、どうも私には張り合いの都合も随分あるのではないかと考えた。
それで常に関西にのみ多く住んでいる私は、つい芝居を見に行く本気を失ってしまう。たまたま行くとその不埓な見物をする。私は常に不埓な見物でことのたりる関西を淋しく思う。
見た夢
私は他人の見たという夢の話を聞くことに一向興味が持てない。夢はあまりに夢のような話であり過ぎる。しかしながら自分の夢を語ることはかなり面白いものであると見えて、昨夜見た夢をくどくどと語る人は多い。
私は今自分の見た夢を語って暫時、迷惑を与えようと思う。食べ過ぎた晩、過労の夜、神経がすこぶる衰えた時に見て、私の記憶に残っている夢の数は多いがそのうちの二、三の馬鹿らしきものを選ぶ。
A
私の庭で私は大園遊会を催した。集まるものは主として画家であり、ことに二科の会員はみな、出席していた。庭の大きな池には花見の船が浮かび、おでんが煮えつまりつつあった。
就中、一艘のボートには大勢の楽手がいて、素晴らしい行進曲を奏ではじめた。
それがとてもやかましいので少しうるさくなったから、私はやかましいぞと、どなった時、本ものの私は丸の内ホテルの八階のベッドの中に寝ていた。そして戸口を誰かが調子を揃えてドンドンガンガン囃し立てているのだ。開けてみると黒田重太郎、国枝金三両君がちゃんと靴をはいてさァ早く支度をせんか、と私をせき立てていた。
B
一台の単葉飛行機が銀色に輝きつつ都会の空を横ぎっていた時、風呂屋の煙突へ衝き当たると同時に両翼がもぎれて散った。あとには魚のような胴体だけがフワリフワリと動いているのだ。
二人の飛行家がその上を走ったがやっとパラシュートが開いた。そして二人は電線へ引っ懸ったので私は安心してそのままことのほか朝寝をしてしまった。
C
ある夜、死んだ母と私がナポリの街のある宝石商の前へ立ってその飾窓を眺めていた時、火山が爆発をはじめた。ちょうど仕掛花火の如く空へ火焔が吹き上がりシダレ柳が落ちて来た。その花火の中に月が美しく輝いていた。キネオラマみたいやないかと母と話していたのである。母は淋しい顔してだまって眺めていた。
D
三越の八階の丸天井の真下を、母が雲に乗った如く平気で歩いている。ちょうどサーカスの空中美人大飛行の光景だった。母の昇天を私は感心して眺めていた。
E
ある晩、母が坐っていた時汽車がその膝頭を轢いて走った。私は驚いてその膝を見ると真黒く焼けて火の粉が蛍の如く光っていた。この夢は私の七、八歳の頃に見たものだが、今にその火の粉の色を覚えている。
F
白いチョークで雨戸へ虚無僧の図を描いていたらその絵が動き出して来たので、私は逃げ出してふとんの中へもぐり込んでしまった。そしてそっと覗くと、枕もとへ本当の虚無僧が立って私を見おろしていた。これも七、八歳の頃の夢だと思う。
G
一六ミリのフィルムに映った自分の顔の大写《クローズアップ》の頬に大変な皺が現れていた。もちろん私の口の近くには三本の皺が四、五年前から現れてはいるのだったが、かくも深刻なものとは思わなかった。まるでそれは象の尻の皺だと私は思った。
その夜、私はスイートポテトの如くパラピン[#「パラピン」は底本では「パラフィン」]紙に包まれた象の幽霊と称するものを人から貰った。馬鹿な、象の幽霊の紙包みなぞあるものかといいながら内心びくびくもので掴んでみると同時に、私は堪らなくなって怖い助けてくれと叫んで目が醒めたが、なお私は象の幽霊のお尻の幻覚におびえていた。
煙管
人間に限らず、犬猫の類《たぐい》でさえも、動くものにかなりの興味を持つ本能があるように見える。手先きを動かしてやると猫や犬は随分ふざけかかって来るし、毬《まり》を投げると追うて行く。人間だって子供は独楽《こま
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