》を喜ぶし、フットボールで時を忘れ、大人《おとな》でさえもテニスや野球、ゴルフ等すべて毬の運動に興味を持つ。その点犬猫のふざけるのと大した変化はない。ただその組織や方法が多少複雑であり、勝負があったりする違いはある。
私などは特に犬猫に近いためか子供の時から殊更《ことさ》ら動くものに興味を持っていた。
昔の夜店《よみせ》には美しい西洋館の屋上から金色の球《たま》がころがり出し、いろいろの部屋を抜け、階段を通り、複雑な線路を縦横に走り廻って落ちて来る仕掛の露店があった。私はその多少、オランダ風の屋台店《やたいみせ》の前へ立って、その金色の球の滑《なめら》かな運動の美しさに見惚《みと》れたものである。するとそのうち、自分が球に乗り移ってしまい、自分自身がその階段を走っている気になってしまう。大体われわれは動くものには乗って見たくなるものである。
その頃は、今の如く電車が走っている世ではなかった。動くものは人力車《じんりきしゃ》位のものだった。今の少年やモボたちが、一目してあの車はキャデラックか何者かを識別する如く、私はその頃の人力車のあらゆる形式を覚えてしまった。殊に往診用の自用車というものに憧憬を持ったものである。そして毎日人力車の種々相を描く事を楽《たのし》みとした。
もっと幼少の頃は、女中の背に乗って、毎日々々|梅田《うめだ》と難波《なんば》の停車場や踏切《ふみきり》へ、汽車を眺めるべく、弁当を持って出張に及んだものである。
あまり毎日出張するので女中が、ひまな改札係や踏切番と大変親密になってしまったという話だが、どの程度に親しくしたものか背中の私には一向わからなかった。それはどうでもよいとして、私は今でもその頃の東京行きの機関車の形態を絵に現し得るだけの正確さを以て覚えている。
その後、初めて大阪市中に電車が現れた時、私はそのエキゾウチックなニス塗りの臭気と、ポールや車輪から、世にも新鮮な火花を発しつつ走って行く姿に見惚《みと》れ、私は学校への往復にはその満員になっている新らしい車体へしがみ付いて乗ったものである。
幸《さいわい》にも、私の生れ合せたこの時代位動くものの無数が発達し発明された事はあるまい。天平《てんぴょう》時代から徳川末期に至る年月において、日本では雲助《くもすけ》以上に動くものを発明されてはいなかったようである。日本は大体古来からあまり動く事を好まなかった国でもある。動く事をむしろ、悪徳の一つであるとさえ教わったものである。静かに静かにというのが大体の方針であったらしい。静観するという言葉がある。
もしも、西洋というものが目の前へ現れなかったら、日本人は今もなお雲助と人力車以上のものを決して望まなかったかも知れない。即ち現代に動いているものの中で日本人の要求によって製造され発明されたものは一つもないといっていい。
全く近代の日本は沈没した潜航艇の如く、ちょっとした穴からあらゆる西洋の動くものが浸入して来た、最初、自動車というものが走り出した時、かなりの人でさえも、不愉快を感じたものであった。砂埃《すなぼこり》と煙を立てて走って行く姿を見てあれは暴君だといってよく怒ったものである。風致を害するともいったものだ。しかしながら如何に静観独居を楽しむ人たちが、雑巾《ぞうきん》やぼろ切れを以て潜航艇の穴を押えつけても、大海の圧力というものは大したものである。とうとう穴の内部は動くもので充満してしまった。しかしまだまだもっと一杯になる事だろう。そして、それらの動くものどもが徳川時代に見られなかった別の新鮮な風景をつくり始めて来た。
先ず動く王様は銀色の姿で空を飛んでいる、地上地下には電車となり、円《えん》タクとなって充満してしまった。私は毎日弁当を持ってこれら動くものの風景を観賞に出て行くにしてはあまりに動くものが多過ぎる。しかし私は、昔、球《たま》ころがしの店先きへ立った時位のうれしさを以《もっ》てあらゆる動くものの速度や形の美しさを眺めている。そしてまた活動写真において、動くものの美しさを感じているのである、それにしては日本のあらゆる動くものや交通機関は巴里《パリ》あたりのそれに比べるとほんとに貧しく穢《きた》ならしく色彩に乏しく、貧乏臭くはあるけれども。
私は巴里のメトロの、さもフランス的な赤色と、青と白との連結された三台の地下電車を思い出す、その内部は全部白きエナメル塗りでありそして乗客の美しさである。あらゆる下層の人たちでさえその整頓《せいとん》した服装がどんなに電車を美しく見せ人を美しく見せている事か知れなかった。私はもしこの美しい電車を大阪や東京の市街を走らせたら、あるいは乗客全部を現代日本の種々雑多な混雑せる服装によって満員せしめたとしたら、如何にこのメトロの動く美しさは消え失《う》せる事であろうかを考えて見た。
しかし、さように私は速度と動くものに興味を持つけれども、悲しい事に、私はこの世に速度というものが加わらなかった頗《すこぶ》る静かな日本の末端に生れ出たものである。動く興味の最初の教育がやっと球ころがしと汽車であった。すると現代の子供は生れると直ぐプロペラーの音を聞き得る訳である。浄瑠璃《じょうるり》が何故に面白いのか、新内《しんない》がなぜ情死させる力があるのか、さっぱりわからない事になりつつあるかも知れない。
私などは、生れるとすぐ浄瑠璃の声を聴いた。それであるのに二、三年も浄瑠璃に御無沙汰《ごぶさた》をして、不意にそれを聴いて見ると、それが大変不思議な世界と思えてならない事がある。なぜむやみにしつこく笑うのか、なぜそんな訳から娘を殺すのか、政岡《まさおか》はなぜ幕を徒《いた》ずらになが引かせるのかなど思う事さえある。だが今乗って来た円タクと油絵の事も忘れてしまってじっと心を静めて見ると、二、三十年以前の私の心がそろそろ蘇生《そせい》して来て、父母在世当時の私の生活や静かな日本を思い出し何んとなく哀調に誘《さそわ》れてしまうのである。漸《ようや》くしみじみとなって席を出ると直ちにお向いのダンスホールとジャズの速度である。
ダンスといえば、私はその様々の効能を説かれて実は二、三度教えを受けて見た事があるが、私の心はジャズと共に明るくは決してなり得なかった。私の本心が踊ってくれないのであった。私の食道の中には先祖代々親ゆずりの長煙管《ながぎせる》が魚の骨の如くつかえているのを私は感じとうとう踊りの稽古《けいこ》は辞退した。如何に動くものに興味を持つとはいいながらも私はあらゆるテンポが静まり返っていた私の故郷の日本もまた忘れ得ないのである。時々われわれがどうかすると東洋回顧をして見たくなるのもあまり動いているとくたびれるので時に飲み込んでいた祖先の煙管を取り出してちょっと一服がして見たくなるのではないかとさえ思われる。しかしながら私たちの次にはきせる[#「きせる」に傍点]とは一体何にかと訊《き》く少年が現われているらしい気がするのである。
閑談一年
一月、新年の遊客、三々五々押し寄せる日多し。石炭をストーヴへつぎ込むことはこの月の仕事である。石炭代が多少気にかかるけれども、まあいいだろうという気になる。籠居してモデルを描く。
二月、画室の前の空地の枯草の下をほじくると、若草の頭がすでに用意されているのに驚く。
三月、まだうすら寒い陽光である。でも近くの池の底に沈んでいる空缶や茶碗の破片の間に赤腹がのろく動いているのを眺める。心のぬくみ少しづつ[#「づつ」は「ずつ」の誤記か]動くを覚える。
四月、そわそわうそうそと血の動揺を感じる。何かじっとしてはいられないといって何をしていいのかわからないという苦悶を感じ、ただもやもやと暮す日多し。
五月、光と空気と、青葉と温度が身に適し何となく爽快を感じる。少しずつ神経の安定を覚え、何か大いに風景写生でもやってみたく思う。
六月、天気が続く、本当に何かしたいと思っていると梅雨の季節に入る。雨を眺めて何となく悩み多くなる。美人を美しと見る日多し。
七月、この月の前半、雨なお多く、雷も鳴る。私は夕立ちを好む。
ところで何故か毎年、この頃より生活上の夏枯れの節に入る。何か売り払ってみたくなる。結局なるべく外出を見合わせ、蚊に食べられたところをかくことをもって楽しみとなす。
八月、毎年の行事である研究所主催の講習会が一日から始まる。朝寝は禁物、九時から午後三時までの労働である。家へ帰ってもなお心の底へ木炭とパンの屑とが溜っている如く感じる。このこと二週間続くのである。そのへとへとのままにして二科へ出す絵を整理し発送するのである。一年間の収穫の貧弱さに気を悪くしているところへ出品画の批評を持ち込まれるのである。
九月、連続せるへとへとのわが身を上野の美術館において見出す。無数の出品画の山である、わけのわからぬ競争と苦の世界の鳥瞰である。絵画の過食と胃に停滞せるパン屑とが混合して中毒作用を起こすのと、陽気が秋に入って身内に変化をおよぼすのと、心身の疲労が重なり例年鑑査の中程から必ず下痢を催すのである。懐炉を腹にあてて残暑の炎天を上野へ急ぐ辛さは深い。
その弱り目において、自分の絵を明る過ぎる壁面に曝して見るのである。心萎びてしまう。招待日に紋付など着用して会場に立つ勇気さらに出でず。逃ぐるが如く帰阪して残る半月を胃腸の手当てで暮す。こおろぎ鳴く。
十月、初秋の自然は風景写生によろし、されど二科会大阪開会とある。相当出勤の義務あり。トランクより冬帽、スエーター[#「スエーター」は底本では「セーター」]、オーバー等を取り出す。ナフタリン臭し。陽気定まり、身体やや元気出ず。松茸のフライ、松茸入りのすき焼等毎日食べる。
十一月、ストーヴを組み立てる支那製の大きな火鉢毎年買いたく思う。籠居してモデルを描く日多し。
十二月、モデル、画室へ現る日多し。歳末の都会風景、趣多し。神戸と大阪のバーゲンセールなど漁りあるき五〇銭のネクタイなど買う。研究所にヴントアレッセイの展覧会あり。やがて餅を食べる幸福が控えている。
右の次第を繰り返しているとやがて人生の終点へ到達する筈になっている。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和三年十月)
夏の都市風景
ドイツ人には兵隊の如く丸坊主の頭が多い。それでいて殺風景かというと左様でもない。若いものは若いなりにさっぱりとしているし、老人は老人として堂々ともしている。それは厳めしいドイツ人の体躯と相貌とに丸坊主がかえってよく調和している如く見えるのである。しかしながら初めてドイツに丸坊主が現れた時は少なからず変に見え、心ではにがにがしく思った人も多いことかも知れない。
日本人や支那人だって、ある時代の要求に応じて、その弁髪や丁髷《ちょんまげ》を切り落す時は、生命の玉を取り落とす以上に感じたことであったらしい。
それも馴れてしまえば、かえって丁髷などうるさくおかしく見えて来るものなのである。何しろ初めてという時に、その先頭を承るところのいの一番に乗り出すところのものは、よほどの勇気ある者でなければならない。とにかく笑われの標的となるにきまっているのだから。
ところで、大概の人は自分も実はやってはみたいのは山々だが、恥しいのと、他人の口が気になったり、おっちょこちょいといわれるのが口惜しかったり、あるいはモガとか、若い奴、阿呆、といわれることを怖れ、世の中全体にその流行なり雰囲気なりが、ほぼ行き渡ってしまうまで、じっとこらえて、我慢をして待っているものである。
断髪や洋装でも左様だが堂々と断髪し、堂々と本式の洋装をしてしまえば気もちがいいのをば、変に遠慮勝ちに、ちょくちょくとやってみるのでかえって怪しく不思議なものが出来上がってくるのである。
断髪してしまうと、また何時思わくが変わっては大変だというしみったれた根性から、その頭髪をなかば後頭の辺りへ押し込んでしまって、ちょっと素人目だけを断髪らしくごまかして見せるもの[#「もの」は底本にはなし]なども
前へ
次へ
全24ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング