せたものだから、遠く望むと請負師《うけおいし》の形であったりする。
女学生やバスガアルの帽子を見るに、何ゆえか素晴らしく大きなもので、殊《こと》に前後へ間延びしている。師直《もろなお》が冠《かぶ》る帽子の如く、赤垣源蔵《あかがきげんぞう》のまんじゅう笠《がさ》でもある。
一体、何が中に入っているかと思って覗《のぞ》いて見ると、髻《たぶさ》が無残に押込まれてあるのだ。なるほどと思う。女学生らは、自分の毛髪の入れ場所に悩んでいるのだろう。
今や若き男たちは、ネクタイの新柄を選びパンタロンの縞柄《しまがら》について考え、帽子に好みの会社を発見しつつあるが、婦人の洋装に至っては、まだまだ夏はアッパッパに毛の生《は》えたもの多く、冬は腰がひえてかないまへんという関係やら、家では靴をぬぎ畳の上へ坐する風習と、暖房装置がこたつ[#「こたつ」に傍点]であったりするために、あまり多く見受けない。しかし、たまたま、驚くべき中河内《なかかわち》郡あたりのカルメンといった風の女性の散歩を見ることがあるが、そんな場合、東西屋《とうざいや》の出現の如くうるさき人々は眺めている。その点では神戸と阪神沿線に見る教養ある洋装婦人や娘たちには相当スッキリとした、近代性を発見して私は満足する事がしばしばある。殊に神戸は西洋人と支那人とインド人とフランスの水兵等、あらゆる人種の混雑せるがために、神戸を中心とする女の洋服は多少本格的だ。だが、植民地臭くはある。
私は子供の如く、百貨店の屋上からの展望を好む。例えば大丸《だいまる》の屋上からの眺めは、あまりいいものではないが、さて大阪は驚くべく黒く低い屋根の海である。その最も近代らしい顔つきは漸《ようや》く北と西とにそれらしい一群が聳《そび》えている、特に西方の煙突と煙だけは素晴らしさを持っている。しかし、東南を望めば、天王寺、茶臼山《ちゃうすやま》、高津《こうづ》の宮、下寺町《しもてらまち》の寺々に至るまで、坦々《たんたん》たる徳川時代の家並である。あの黒い小さな屋根の下で愛して頂戴ね[#「愛して頂戴ね」に傍点]と女給たちが歌っているのかと思うと不思議なくらいの名所|図会《ずえ》的情景である。ただ遠い森の中にJOBKの鉄柱が漸く近代を示す燈台であるかの如く聳えている。
大阪の近代的な都市風景としては、私は大正橋や野田附近の工場地帯も面白く思うが、中央電信局|中之島《なかのしま》公園一帯は先ず優秀だといっていい。なおこれからも、大建築が増加すればするだけその都会としての構成的にして近代的な美しさは増加することと思う。ただあの辺《あた》りの風景にして気にかかる構成上の欠点は、図書館の近くにある豊国《とよくに》神社の屋根と鳥居《とりい》である。あれは、誰れかが置き忘れて行った風呂敷包《ふろしきづつ》みであるかも知れないという感じである。
大阪には、甚だ清潔に休息し得る本当のカフェーというもの甚だ少い。殊に南の盛り場に至ると全くないといっていい。そのくせカフェーはうるさいほどあるのだが。
先ごろも、甚だ野暮《やぼ》な次第であるが、三組の夫婦づれで心斎橋を散歩した時、あまりにのど[#「のど」に傍点]が乾《かわ》いたのでお茶でも飲みましょうといったが、その適当な家がないのだ、ふと横町に多少静からしい喫茶の看板を発見してドアを開《あ》けると、これはまた例の青暗い家だった。われわれ夫婦たちの間へ、一人ずつの女給が割込んだものだ。さてわれわれ男たちは何事を喋《しゃべ》ってよろしきか、女給は何を語るべきか、細君は如何なる態度を示すべきかについては暫《しばら》くの間、重き沈黙が続いたのちわれわれは出がらしの紅茶と不調和と鬱陶《うっとう》しさを食べて出た。
しかしながら、大阪のカフェーは旅の空か何かで訪問したらさぞ不思議な竜宮《りゅうぐう》だろう。和洋の令嬢と芸妓《げいぎ》、乙姫《おとひめ》のイミタシオンたちがわれわれを直《すぐ》に取り巻いてくれる。しかし彼女たちは踊らず、歌わずただ取り巻いてチップだけは受取ろうという訳だから、十分間で十分の退屈を味わうことが出来るかも知れない。だがしかし、あれは一体要するに、何をして遊ぶ処だか、あのややこしい、近代性は飲み込めないのだ、しかし、名称は女|給仕人《きゅうじにん》だから給仕のつもりで控えている訳だろう。だが、それにしてはあまりに多過ぎるうるさい悩ましくも美しい給仕人ではある。とにかく大阪のみに限らず日本の近代風景は、かなりの悲劇だ。ともかく決して面白くもないが、万事を諦《あき》らめて、私はやむをえず心斎橋筋をそれでも歩いて見る。
観劇漫談
どんなくだらない展覧会でも、決して見落したことがないという絵画愛好家がある如く、本当の芝居好きという人物になると、如何なる芝居でも、芝居と名のつくものは何から何まで見て置かぬと承知がならないという。そして舞台では誰が何を、どんなに演じていたって構わない。ただ要するに芝居の中で空気を吸うて毎日坐っていたいというものさえある。
さような人物になると座席など決して贅沢《ぜいたく》はいわない。いつも鯛でいえばお頭《かしら》の尖端《せんたん》か、尻尾《しっぽ》の後端へ噛《か》じりついて眺めている。
即ち近くで泣く子供を叱《しか》り付けながら、足の痺《しび》れを我《が》まんしながら、遠いせりふ[#「せりふ」に傍点]を傾聴しながらあるいは弁当とみかんの皮に埋《うま》りながら、後ろの戸の隙間《すきま》から吹き込む冷たい風を受けながら、お茶子《ちゃこ》の足で膝《ひざ》を踏まれながら、前へ坐った丸髷《まるまげ》と禿頭《はげあたま》の空隙《くうげき》をねらいつつ鴈治郎[#「鴈治郎」に傍点]の動きと福助[#「福助」に傍点]のおかるを眺めることが、最も芝居を見て来たという感じを深くし、味を永く脳裡《のうり》に保たしめるのであるらしい。そしてまた次の興行には必ず行ってまたあのうれしい苦労がして見たくなるのである。
それらの苦労をなめ、火鉢《ひばち》の温気と人いきれを十分に吸いつくして、頭のしん[#「しん」に傍点]が多少痛み出すころから、漸《ようや》く芝居の陶酔は始まるのだと芝居通の一人はいう。だがそれらの苦労を全部省略してしまった処の近代風の劇場では、見物人が煙草をのまぬが故《ゆえ》に、ものを食べないが故に、火鉢を持ち込まない故に、芝居が終るころになっても空気はからりと冴《さ》えているので、どうもも一つ、張合《はりあい》がなくて、陶酔すべき原料がないという。
しかし大阪では、新らしい近頃の文楽座《ぶんらくざ》以外では先ず、どの劇場もまだまだ、充分の原料を設備して愛好家を待っている。
さて、私の如く常に芝居の空気とその雰囲気《ふんいき》による訓練を欠いでいる無風流な者どもが、そして毎日無風流な文化住宅とビルディングとアトリエの中をズボンと靴で立ちつくしているものたちが、時たま観劇に誘われて見ると、東京の劇場は靴のままの出入りだから幸福だが、大阪では通人のする苦労を共に楽しまねばならない。この我まんこそが芝居をよりよきものにするのだとは知りながらも、つい腹の方が先きへ立ってくるのでいけない。時代のテンポは画家という風流人を、かくも無風流にしてしまったかと、われながら、あきれるばかりである。
昨夜も久しぶりで、窮屈な桝《ます》の中へ四人の者が並んで見たが、四人の洋服は八本の足を持っているものだからその片づけ場所がないのだ。くの字に折って畳んで見たり、尻の下へ敷いて見たりまた取り出して伸ばして見たり、あるいはさすって[#「さすって」に傍点]見たり、全く持てあました。
愛人と共に過ごす幸福の一夜は、片腕の存在を悲しむという意味の唄《うた》がどこかにあったが、全く芝居では両足の存在が悲しい。帽子と共に前茶屋へ預けて来ればよかった。その窮屈の中へなお、火鉢と、みかんと、菓子と食卓と、弁当と、寿司《すし》と、酒とを押し込もうというのだ。
それから芝居の雰囲気を増す原料の一つである光景は、幕が開いてしまっているのに、小用や何かで立った男女老若が、ぞろぞろばたばたと花道を走る事だ。
昨夜も判官《はんがん》は切腹に及んで由良之助《ゆらのすけ》はまだかといっている時、背広服の男が花道を悠々《ゆうゆう》と歩いて、忠臣蔵四段目をプロレタリア劇の一幕と変化させた事だった。
全く幕が開いた暫《しば》らくなどは舞台では何が始まっているのか見えない位のこんとん[#「こんとん」に傍点]さである。姉《ね》えやん、光《み》っちゃん、お母《かあ》ん、はよおいでんか、あほめ、見えへんがな、すわらんか、などわいわいわめいている。
その喧噪《けんそう》の花道を走る芸妓《げいぎ》の裾《すそ》に禿頭は撫《な》でられつつ、その足と足との間隙《かんげき》から見たる茶屋場などは、また格別の味あるものとなって、深き感銘とよき陶酔を老人に与えたであろうかも知れない。
とにかくも、先ず芝居はどうであろうとも、芝居の中の浮世の雑景は、近代の様式による劇場のとりすましたるものとは違って、雑然として見るべきものが甚だ多い処に、私も芝居以上の陶酔を持つ事が出来る気がする。
なるほど、徳川時代か何かに生れて、のらりくらりと芝居の桝の浮世の中へ毎日入りびたっていたりする事は、悪くはない事だったであろう。ところでわれわれ現代人はこの八本の足の始末に困っているのだ。
さて、かかる光景を喋《しゃべ》っているうちに予定の紙数は尽きてしまった。芝居の本文は他の連中へ譲って私はこれで擱筆《かくひつ》する。
挿入の絵は公設市場に蟹《かに》が並べてあるのではない。忠臣蔵四段目、福助の判官が切腹を終ったすぐあとの、静寂なる場面の印象を描いたものである。
芦屋風景
芦屋という処へ住んで二年になる。先ず気候は私たちの如くほそぼそと生きているものにとっては先ず結構で申分はない。そして非常に明るい事が、私たち淋《さび》しがり屋のために適当しているようだ。
南はすぐ海であり、北には六甲山が起伏し、その麓《ふもと》から海岸まではかなりの斜面をなしている。東に大阪が見え、西には神戸の港がある。電車で大阪へ四十分、神戸へ二十分の距離である。
その気候や地勢の趣きが南仏ニースの市を中心として、西はカーニュ、アンチーブ、キャンヌ東はモンテカルロといった風な趣きにもよく似通《にかよ》っているように思えてならない。殊に山手へ散歩して海を眺めるとその感が深い。小高い丘陵が続く具合、別荘の多い処、自然が人間の手によってかなり整頓されている処、素晴らしいドライヴウエイがあり、西洋人夫婦が仲よく走る有様なども似ている。私は散歩する度《た》びに南仏を思い出すのである。
それで随分風景を描く場所も従って多く、風景画には不自由を感じないように思える訳でもあるけれども、それが事実はさようにうまく成立っていない処が、南仏と芦屋との悲しい相違である。
南|仏蘭西《フランス》一帯にかけて生い茂っている処のオリーブの林は如何に多くの画家を悦ばしている事か知れない。その墨の交じった淡緑色と、軟かく空へ半分溶け込んで行く色調は随分美しい。セザンヌやルノアルの風景の半分はオリーブの色調で満たされているといっていいかも知れない。
この芦屋にはオリーブの代りに黒く堅い松の林の連続がある。松も悪いともいえないが、オリーブのみどりに比べると色彩が単調で黒過ぎる、葉が堅い。従って画面が黒く堅くなる。
地面は六甲山から流れ来る真白の砂地である。白と堅いみどりの調和は画面に決して愉快な調和を与えない。その白い砂地に強い日光が照りつけ、松の影が地に落ちるとただ世界はぎらぎらとまぶしく光るだけである。大概の画かきはこれは御めんだといって逃げ出す有様を私はしばしば見る。
それから風景としての重大な要素である処の建築が文化住宅博覧会であるのだ。或る一軒の家は美しくとも、その両隣りがめちゃなのだ。すると、悉《ことごと》くめちゃと見えてしまう。
その家
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