の多かったことは驚くべきものであった。
 初めて座敷へ通った時、私は床の間の上に一匹、天井の壁に二、三匹、大きな奴が控えているのを発見して私はこんなところに永居は出来ないと考えた。
 私が二階へ行こうとして階段を登りかかると大きな一匹が下りて来て、ちょうど階段の途中で蜘蛛と私がすれちがったことがあった。私は悲鳴を上げた。蜘蛛はその声に驚いて飛び上がった、それでまた私が夢中になって座敷へ転がり込んだ。
 それから私の神経は極度に興奮して、一寸蝿が首筋へとまってさえも私は飛び上がった位だ。私は大道君に頼んで、一つ一つ座蒲団をもって退治してもらった。鍋平朝臣の蜘蛛退治というのはあまり伝説にも見当たらないようだがなかなか手際のいいものだった。私はその死骸を見るに忍びないので、始末のつくまで、庭へ出て待っていたことである。私は道後を思うとすぐ蜘蛛を思い出していけない。

 去年の夏は紀州の大崎という片田舎の漁村へ、研究所の夏季講習会があったので生徒とともに出かけてみた。
 ところがその宿の便所というのが、そもそも私達が到着したその時から気にかかって堪らないものであった。その夜のことだ、私はどうしても便所へ入る必要に迫られたものであった。もちろん淋しい漁村のことだから、便所に電灯がつく筈もないのだ。その真暗の便所の壁に、どうやら何物かがいそうな気がしてたまらないのであった。そこでとうとう同行の国枝金三さんに、君一つはばかりまでついて来てはくれまいかと頼んでみたものだ。
 何がさて、仏性の金三さんだから快く引き受けてくれた。よしよしといいながら提灯を携げてついて来てくれた。なんぞいるかというので、私はちょっと待っててやといいながら尻をまくって便所の隅々を見廻した。すると予感というものはまったくおそろしいもので、大きな奴がしかも二匹、目玉が燐光を放って物凄いのだ。
 君、いるいるといって私は往来へ逃げ出した。暫時、金三さんはドタンバタンと便所の中で一人立廻りをやっていたが、やがて小出君、安心しいや、もう二つとも殺したという声がした。私はその時位金三さんの親切が身に沁み込んだことはなかった。しかしながらこんな仏性の人に二匹まで殺生をさせたことを大変相すまぬと思って今に気にかかっているのである。

 そんなに嫌いな蜘蛛をば種に使って私は子供の時分、よく大人を欺したことがある。私は画用紙へその大蜘蛛の姿を墨で描いて、鋏で切り抜くのであった。切り抜いてみると、自分で今切り抜いた筈のその絵の蜘蛛が、心もち悪くて自分で掴めない位なものである。それを我慢しながら、その八本の足の先端へ糊をつけて暗い壁へ貼付けるのである。すると胴体だけが少し浮き上がってちょっと見ると本ものに見えるのである。しかる後、私はさァ皆来てくれ、くもやくもやと騒ぎ廻るのだ。
 ある時蜘蛛を生捕りにすることを自慢のおやじが近所にいた、おやじは早速団扇と篩とを持ってやって来て、さあ見なはれや、今生捕りまっさかいといいながらその紙の蜘蛛へ一生懸命篩を被せているのであった。ところが足が糊づけだから、なかなか蜘蛛は動かないのだ。何度被せてみても元の如くちゃんと壁に噛みついているのである。さすがのおやじも少し不気味に思えたとみえて、これはおかしいぞといって少し蒼くなった。見物していた皆のものも少し変な顔をした。おやじはとうとう団扇でくもをなぐりつけたものだ。すなわち紙の蜘蛛はヒラヒラと散って来た。裏は真白だったからおやじは怒った。もこれからは、ほんまにぼんぼん蜘蛛が出たかて、取ったれへんぞといって帰ってしまった。そして学校で教わった狼の話を私は思い出してはなはだすまないと思ったことがある。

   五月の風景

 私は冬中をば冬眠中の蜘蛛の如く縮み上がって暮す。そして冬眠中に出来そうな仕事、例えばストーブの側で裸女を描くとか、あるいは公設市場で蔬菜静物を買い込んで来てテーブルへ並べてみるとか、あるいは子供の流感に喫驚して代診の如く体温計を持って走ってみたりなどするのである。
 ところでいくら神様が造ったと称する不思議にも立派な裸女や蔬菜静物といえども、毎日毎日眺めていると食べものと同じく飽きるものである。ああ、またカボチャかと思う。こうなってはもはや、何事もおしまいである。早く春になれと思う。新鮮な風景を早く描きに出たいと考える。それで私は人一倍春を待つのである。
 大体春というものはいじけているものを伸上がらせるものである。私が春に会うて伸出すと同時に冬中縮みながら考えていたところの芸術という私の一番大切な考え以外における私の体内にひそむその他のあらゆるものまでを共に伸上がらせてしまうのである。伸出すものは私ばかりではない世の中の花が揃って咲出すのである。本当の蜘蛛もそろそろ動き始める。すると汽車や電車は浮上がり伸出した人達でもってすでに一杯となっているし、往来へ出ると御馳走の嘔吐が吐き散らされているし、浪花踊が始まっていたり、芦辺踊の紅提燈がずらりとお茶屋の軒に並んでいたりするのである。すると私はちょっとカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]スを枠へ貼ってみたり、あるいはちょっと外出してみたり、帰ってみたり、またちょっと出てみたり、また帰ってみたり、あるいは「どうしたものか知らん」「何んぞ」「どないぞ」「何んとか一つ」といった言葉を繰返しながら、すこぶるよい天気の一日を殆ど中腰となって、動物園の狐が檻の中でする如く狭い部屋の中をぐるぐると巡回するのである。こうなるとしまいには何とも知れない憂鬱が込み上がってくるものだ、わけのわからない癇癪が立ちのぼってくる。
 私はこんな状態になったある日のこと、とうとう私は妻君にちょっとしたいいがかりをして、食べていたお茶漬を襖へ向かって投げつけたことがあった。襖は破れて茶碗は半分、唐紙へ食い込んだ。その穴から襖の中へお茶漬が半分流れ込んであとの半分は畳の上へ散乱したものである。散乱したお茶漬というものは随分穢いものだと私は思った。私はそれを見るに忍びないので二階へ駆け上がったがどうも気にかかって堪らないので二〇分ばかりの後、そっと下りて茶の間を覗いて見た。すると驚いたことには何もかも綺麗に片づけてあるのにこわれた茶碗とお茶漬だけは、散乱したままそっと宝物の如く大切に保存されてあるのだった。これには少し弱った。一刻もこんな穢らしいものを捨てておけないと私は考えたが、今さら掃除を命じるのはくやしいから、掃除位なんだと私は叫んで箒を持ってめし粒を掃き寄せ、襖の穴へは紙を貼った。流れ込んだ茶漬は仕方がないからそのまま封じ込めてしまった。
 その後私はその襖を見るたびにこの中には、あのめし粒が入っているんだなと思うのである。

 まずそんないろいろの悩ましき障害から、私は春になったら花を描いてみよう、桃のある間にあすこへ出かけて二、三枚制作してみようなど数年来同じことを考えていながら、ただそわそわとしてまだ一枚の春らしい絵も作らず、今年こそ今年こそと思いつつこの季節を逃してしまうのである。
 ようやくにして多少の猥褻の気を含める桜の花も散りはて、柿の若葉が出揃い、おたまじゃくしが蛙となって鳴き出す頃、初めて私の神経がややもとの鞘へ収まろうとするのである。もう世の中全体の浮気も一段落を告げ、もはや何を見ても満目青いことである。それからだんだん自然の青さと暑さは増すばかりだ。
 この青さと暑さが私にとってよい合薬だ。私は私の故郷へでも帰った心地がする。もう電車や汽車に乗っても、酔っぱらった青年団や旗を持った運動会にも出会わない。まず家を出て仕事をして帰るまで、さほど機嫌を損じることもない。まず五月の風景は私の野外における仕事始めのかき入れ時である。
 ところが多少困ることにはこの安心な初夏風景は絵の構成上、色彩に不足を感じることである。すなわちただ一切が緑であるから。
 それでようやく辛うじて、空と水とによって画面の色彩に変化を保たせようとするのである。絵描きに限らず人は何となく、夏になると水のそばへ行きたがるのもあるいは同じ要求からかも知れないと思う。
 でもまだ初夏には若葉のよき階調があるけれども、もう梅雨を過ぎるといよいよ緑は深くどす黒く、ただもう鬱蒼として黒いのである。したがって画面はすこぶる単調を免れない。
 しかしながら私はそれで満足して、静かに日傘の下で安心して仕事をつづけることが出来る。
[#地から1字上げ](「新潮」昭和二年五月二十六日)

   夏は自動車

 夏はことに自動車のドライヴはすがすがしい。まして自分自身でドライヴすることが出来たらさぞ愉快なことと思う。しかしながら私は大体雑念妄想の多い性質だから、ハンドルを握りながらすれちがった美人について考えたりするうちに一〇〇メートル位は進むことであろうから、そのうち何者かに突き当たらずにはいないであろう。だから私は自分でドライヴする道楽だけは、万一自動車の古手が一〇〇円位で手に入るとしても決してなすべきことではないと断念している。
 自動車というものは軌道がないので、何となく自由な走り方をするのが好きだ、一直線でなく、人間の歩行と同じく、多少とも千鳥足で進行するところが、大変自分の心のために安楽と自由を感ぜしめる。
 軌道の上に鉄の車が嵌めこまれているところの電車や汽車は直線の上を窮屈に進み、その代り安全であり安定はしているが、その安全からくる退屈さはまた格別である。
 ところで自動車はむしろ、不安全と不規則と危険に満ちている。左右にゆらゆら動きながら、思っただけの速度の緩急を随時に行いつつ走るので心を束縛することがなく、気随気ままを振舞うことが出来る。気随、気ままで危険に充ちた興味を味わうことは、近代のわれわれの心を慰めるのにもっとも適当である。そしてわれわれは退屈から救われるのである。
 その点、汽車に終日乗ってみると安全ではあるが、いくら欠伸をしてもし尽せない位の欠伸を催す。
 私はしばしば自動車の遠乗に誘われる。その時車上の家族は主体であり、自然風景はことごとくたんなる背景となるに過ぎない。水の流れる如く、人も海も山も家もただ後ろへ流れて行くだけである。
 まったく自動車のドライヴでは、距離や哩数はたんに指針の尖端にのみ現れるに過ぎない。本当の地球の広さはわからない。したがってドライヴの旅の印象は、活動写真で見た実写ものの記憶と殆ど同じことであるといっていいと思う。
 私はいつか奈良ホテルから、公園を自動車で通過したことがあった。その時の奈良はちょうど渡欧の途中で見物したシンガポールの植物園とほぼ同じだった。そして歩いている男女は土人の如く見えてしまった。そして別の日に、私は同じ公園の古さと広さと長閑さと人情とがわかった。もちろん私の足で歩いたのだ。
 何しろ自動車のドライヴは愉快だがあらゆる人情と風景と地球が縮まってしまうことは惜しむべきことだと思う。しかしまあ、自動車のドライヴはその日の天候とテンポの速さの近代味を楽しめばそれでいいのだ。そしてなお車上の親愛なる人間同士が親愛であれば幸甚であろう。とにかく夏はオープンの車体を走らせることが壮快にして晴々していることではある。

   上方近代雑景

「今はもう皆あれだす[#「今はもう皆あれだす」に傍点]、うちの子供にもあんなん買うたろ[#「うちの子供にもあんなん買うたろ」に傍点]」といって漸《ようや》く着せて見た洋服を、私は心斎橋筋《しんさいばしすじ》の散歩で沢山見受ける。即ち女の子は、近所の女給かダンサーの扮装《ふんそう》となって街頭に現れる。その両親は、どうだす、見てんかという顔で歩いている。
 あるいは子供のスカートの裾《すそ》が妙に厚ぼたくふくれているので何かと思って近寄ると、とても長い洋服にウンと縫上げがしてあった。五、六歳の子供だが、多分女学校へ入学してから漸く身に合うに至るだろう。あるいは男の子のズボンが膝《ひざ》の下何寸かに垂れ下っていて上着《うわぎ》に大きなバンドがあり、それへ粋《いき》な帽子を着
前へ 次へ
全24ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング