ら近代の子供で、その両親よりも身長の低いというものはだんだん少なくなって来ました。貧弱な私でさえも両親より身長はあります。大概の娘さんはお母さんを見下ろして話をしています。それは何といっても、次の時代の勝利を示している一例であろうと私は思います。
 今日生まれる赤ん坊、明日の赤ちゃんはまた現代の息子や娘を眼下に見下ろす時代が来ることでしょう。
 そしてその足はいとも伸びやかにのびのびと伸び上がって、その先端の小さな靴は男の心に美しい悩みを与えることになることでしょう。
 足が伸び上がり走り出すとともに女の心は伸び上がって街頭へ走り出しました。急激に伸び上がった日本女性が、ために心の落着きと平均を失って色々の事件を起こしますこともありますが、それらは暗闇から急に放り出されたものの戸惑いに過ぎないものだと私は思います。

 いったん足をもって立ち上がったことは室内より街頭へ立ち上がったのであります。四畳半の小座敷では両足は畳んで尻の下へ敷いていますから勢い顔が女の重要な看板であります。日本の女の顔が全身に比して大きいのも故ある次第です。
 さて、近代の機械が著しく動く街景にあっては、顔はほんの一部分に過ぎません、また舞台へ二〇人の裸形の女が並んだ時、顔は帽子の一部分であります。大体の看板は胴体と足であります。すなわち全裸身の完全な発達からくる美しさが必要となって来ます。
 だいたい日本婦人の不健康な裸身はその生活様式と作法と、修養等からおいおいとゆがめられつつ完成した不具であろうと思います。したがって近代の生活は彼女達をやがて直ちに完全な裸身へまで還元せしめることを私は信じます。
 その上人種としてのその淡黄と淡紅の交り具合と、その皮膚の細かく滑らかにして温みあることにおいて、私は西洋人の白きつめたさに幾倍するある力を持っていることを感じているのであります。やがて日本女はその[#「その」は底本にはなし]柔軟にして黄色の皮膚をもって低き鼻のかわいらしさにおいて、世界の美女の一つとなることを私は考えます。
 現代の母はすでに自分自身の胴体と手足に先祖の遺風を発見して悲しんでいますが、その悲しみはやがてその娘達の上に酬いられ、娘達はその望みをかなえてくれるにちがいありません。
 私もまたその時こそ本当の日本近代美人を見ることが出来るであろうと思うのですが、しかしその時分には、私も現代から遠ざかって、うるさい老人の一人として淋しくそれらを眺めあるいは何かケチをつけたがることかも知れません。
 十幾年以前、私が美術学校時代に使っていたモデルと今日のモデルとを比べて見ましてもまったく驚くべきちがいがあります。昔のモデルは高島田の頭や島田髷さえありました。モデル台に立つと胸は水落ちのところをへこませて、帯の下は常に血のめぐり悪しく茶褐色の暗さがあり、下腹が妙に飛び出し足は曲がっていました。それはむしろエロチックな浮世絵から抜け出たばかりの姿において立っていました。ただ今ではとくに好んで描いてみたいという特別な興味を有する画家は芸妓か京の舞子達の中にそれらの美を求めなければなりませんでしょう。しかしながら毎日強そうな元気な近頃のモデルを眺めていますものは、道頓堀あたりで舞子がまだ若いのに青い静脈を額に現して、牡丹燈籠から現れたような瓜ざね顔で歩いているのを見ますと、何か不気味の感にさえ打たれることがあります。

 とにかく現代の美人の焦点をなすところの若い女達は、相当の度合いにまで心も身も成長し、伸び上がりつつありますことは悦ばしい明るさであります。これでなければまったくもって一九三〇年の海は泳げません。
 しかしながら彼女らの新鮮なる裸身はこんとんとして残る古切れ類やわけのわからない軽便服や、夏だけのアッパッパ、冬のマガレットオーバー等によっておかしくも包まれつつ何がな火事場を走っているようでありますが、これもやがて次に来る新鮮なる彼女達の感覚によってもっと合理的で経済で美しいいでたちとなって、近代都市風景のもっともよき点景となるであろうことを私は信じます。

   画室の閑談

     A

 京都、島原《しまばら》に花魁《おいらん》がようやく余命を保っている。やがて島原が取払われたら花魁はミュゼーのガラス箱へ収められてしまわなければならぬ。しかし、花魁は亡《ほろ》んでも女は決して亡びないから安心は安心だ。
 芸妓《げいぎ》、日本画、浄るり、新内《しんない》、といった風のものも政府の力で保護しない限り完全に衰微してしまう運命にありそうな気がする。
 油絵という芸術様式も、これから先き、どれ位の年月の間、われわれの世界に存在出来るものかという事々を考えて見る事がある。如何に高等にして上品な芸術であっても人間の本当の要求のなくなったものは何によらず、惜《おし》んで見てもさっさと亡びて行く傾向がある。
 大体、人間が集って、何んとなく相談の上芸妓を生み出し、人間が相談の上、浄るりを創《つく》り、子供を生み、南画を描き、女給を生み、油絵を発明させたように思われる。油絵が岩石の如く人間発生以前から存在していた訳ではない。
 全く、如何に花魁は女給よりも荘厳であるといっても、我々背広服の男が彼女と共に銀座を散歩する事は困難だ。今やすでに、現代の若者が祇園《ぎおん》の舞妓《まいこ》数名を連れて歩いているのを見てさえ、忠臣蔵の舞台へ会社員が迷い込んだ位の情ない不調和さを私は感じるのである。
 この芸術こそ再び得がたいものであるが故に保存すべきものだと話しが決った時、その芸術は衰微|甚《はなは》だしい時であると見ていいと思う。父を一日も永く生かしてやりたいと願う時、父は胃癌《いがん》に罹《かか》っている。
 何々の職人は広い東京にたった一人、京都に一人、平家物語りを語り得るものは名古屋に一人、芸妓は富田《とんだ》屋、花魁は島原、油絵描きはパリに幾人にしてそれでおしまいという事にならぬとは限らない。
 最近、最も景気がよくて盛んな国、アメリカにどんな画家が輩出しているのか、寡聞《かぶん》な私は知らないのである。アメリカでは映画と広告美術があれば事は足《た》っているかも知れない。また従って優美な美術家を今更自分の国から出そうとも考えていない如く見受けられもする。彼らは最早や油絵芸術を骨董品《こっとうひん》と見なしているのかも知れない。そしてアメリカ人は、支那の古美術と古画と浮世絵を以《もっ》て彼らの美術館を飾ると同じ心を以てパリの近代絵画の信用あるものを選んで買い込んでいる。先ず最も新らしい、現代らしい頭のいいやり口だといえばいえる。しかしながら万事金の力で不足を補う処の何だか下等にして憎さげな態度はしゃくにさわるけれども、アメリカという国は急に衰微するとは思えない。
 とにかく、政府や富豪の力で保護しなければ衰えそうな芸術は、何んと霊薬を飲ませて見た処で辛《かろ》うじてこの世に止《とど》め得るに過ぎなくなるにきまっている。従ってその最盛期におけるだけの名人名工はその末世にあっては再び現われるものでない。ところで油絵芸術はまだ末世でもあるまいと私の職業柄いっておかなければ都合が悪いけれども、本当の事は、私にはわからない。

     B

 この間、私が見た芝居では、天王寺屋兵助という盲目の男が五十両の金|故《ゆえ》に妻を奪われ、自分は殺され、まだその他にも人死にの惨事が出来上《できあがっ》たようだった。全く人間の生命も金に見積るとセッターや、セファード、テリヤよりも案外安値なものである。
 絵描き貧乏と金言にもある通り、その一生といってもこれは主として私の一生の事だが、それを金に換算すると随分安い方に属していると思う。
 酒は飲めず、遊蕩《ゆうとう》の志は備わっているが体力微弱である私は、先ず幸福に対する費用といえば、すこぶる僅少《きんしょう》で足りる訳である。たとえば散歩の時カフェー代と多少のタクシと活動写真観覧費とレストウランと定食代位のものかと考える。職業柄の材料費というものは案外素人の考えるほどにはかからぬものである。
 またさように資本をこの方面につぎ込んで見た処で、その多量な生産を誰れが待っているという訳のものでは更にない。徒《いたず》らに押入れの狭さを感じるわけである。
 先ず一年のうちに四、五枚の点数がそろえば秋の二科へ出すだけの事である。そして仲間うちの者たちのために、いいとか悪いとか、いわれてしまえば用は足る都合になっている。ほめられたからといって、どう生活がよくなる訳でもなく、悪口されたといって失職するものでもない。
 やがて秋の季節が終りを告げる時、額縁代と運送費を支払えば一年の行事は終る。先ずこれ位の事が辛うじて順調に繰返し得るものは幸福だという事になっている。
 宗右衛門町のあるお茶屋では、一ケ月千円以上の支払あるお客への勘定書《かんじょうがき》には旦那《だんな》の頭へ御の一字をつけ足して何某御旦那様と書く事になっている。その御旦那様の遊興費にくらべても画家の生涯はばかばかしくも安値である。
 一台の機関車、一台の電車、一台のバスキャデラク、飛行機を見てさえも、これは俺《おれ》の一生よりも少し高い、これは絵描き何人分の生活だ、という浅間《あさま》しき事を考えて見たりする。たまたまわれわれの一生よりも安価な品物や、天王寺屋兵助を見るに及んで何となき愛情を私は感じる。
 もしも、人間としての体格が立派で、生活力が猛烈で、人間の味《あじわ》い得るあらゆる幸福は味って置きたいという、そして大和魂《やまとだましい》というものを認め得ない処の近代的にして聡明《そうめい》な絵描きがあったとしたら、絵画の道位その人にとって古ぼけた邪道はないかも知れない。

     C

 私は最近、二科の会場でパリ以来|久方《ひさかた》ぶりの東郷青児《とうごうせいじ》君に出会った、私は東郷君の芸術とその風貌《ふうぼう》姿態とがすこぶるよく密着している事を思う。なお特に私は彼自身の風貌に特異な興味を感じている。そしてそれは、最も近代的にして、色の黒い、そして何処《どこ》かに悪の分子を備えている処の色男である事だ。私はあれだけの体躯《たいく》と風貌と悪とハイカラさと、芸術とを持ち合せながら本人の出演を少しも要求しない処の絵画芸術に滞在している事を甚だ惜んで見た。甚だ御世話な事ではあるがと思っていたが。

     D

 私は絵を描く事以外の余興としてはスポーツに関する一切の事、酒と煙草《たばこ》と、麻雀《マージャン》と将棋と、カルタと食物と、あらゆる事に心からの興味が持てない。ところでただ一つ、何故か気にかかるものは活動写真である。それで、映画は散歩のついでに時々眺める事にしている。近来、日本製のものがかなり発達したという話だが、私は以前二、三の日本映画を見て心に恥入ってしまってから、まだ当分のうち決して見ない事にしている。
 しかし、その西洋のものといえども、私の健忘症は見たものを次から次へと忘れて行くが、私はアドルフマンジュという役者を忘れ得ない。私は彼のフィルムは昔からなるべく見落とさぬように心がけている。
 私は彼が「パリの女性」に出て成功した以前、随分古くから至極つまらぬ役において、現われているのをしばしば見た。随分|嫌味《いやみ》な奴だと思っていたが、また現れればいいと思うようになり、その嫌味な奴が出て来ないと淋しいという事になって来た、幸いにも彼は出世してくれたので、私は遠慮なく彼の嫌味に接する事が出来る事は私の幸いである。
 も一つ、私は欧洲大戦以前、チャップリン出現以前における、パリパテー会社の喜劇俳優、マックスランデーを非常に好んでいた。私はかなり、むさぼる如く彼のフィルムを眺めたものだった。彼の好みは上品で、フランス人で、色男で、そして女に関する上品な仕事がうまかった。その点マンジュに共通した点がある。
 ところが欧洲の大戦によって彼の姿を見失って、チャップリンの飛廻るものこれに代った。
 その後、ふと私はパリでマックスが復
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