活せる力作を見るを得て、私は心の底から笑いを楽しむ事が出来た。最後に、私は日本で、彼の「三笑士」を見たが、間もなく彼は死んでしまった。多分それは自殺だと記憶する。
とかく生かしておきたい者は死んで行く。
虎
街道筋に並ぶ低い農家に、柿の木が紅葉していたり、建石《たていし》があり、右何々道左何々道と記されていたり、牛が向うから歩いて来たり、馬子《まご》がいたり、乗合《のりあい》馬車の点景があったり、巡礼姿が花の下にいたり、そして、酒めし、と記された看板が描かれているといった風景画は、私の美校入学志望時代において、最も多くこの世の中に存在していた風景画であった。
従ってその頃のわれわれは、何かしら絵の中へは、酒めしに類した看板を一つ描き入れないと、人間に目鼻がつかぬ如く思われたものであった。どうかすると、旅をしても、風景はそこそこにして、先ずその看板ばかりあさって歩くという風習さえ起って来た事を記憶する。何も巡礼姿と、たばこ、酒めし、の看板、街道筋でなければ、油絵や水彩画は成立たぬ訳では決してなく、世の中は広々としているのに、どういうものかそれを描かぬと、人にして人に非《あ》らず、画家にして画かきに非ずとさえ見做《みな》される事が、日本では殊の外あったようである。ところで一時代過ぎてその酒めしの看板と田舎道が、とみに人気を失いかかると、もう薄情にも、誰れがあんな阿呆《あほ》らしいものを汽車賃まで使って描きに行ったのか、その心根がわからないではないかという事になったりする。勿論《もちろん》、現代では何がな横文字の看板ばかりあさって歩く風潮もあるにはあるが。
私が白馬会《はくばかい》へ最初通い出した時分は何がな、風景でも、何によらず、物体の影という影は光線の具合によって、紫色に見えるものだよ君、眼をほそめて、自然を観察して見給え、そら、紫でしょうがな、と私はしばしば注意された事であった。そうかなと思って私はつくづく眺めて見たが、遠方はなるほど多少紫っぽいが、人間の髪の毛や、近くの樹木の幹の影などは皆が、素直に紫に見る如く紫では決してなかった。私はこれでは画家としての眼を自分は備えていないのかと思ったりしてふさぎ[#「ふさぎ」に傍点]込み、下宿へ帰って一晩中考えて見た事さえあったが、しかし、翌日、谷中《やなか》の墓地を通って見ても、木の幹の影はやはり紫では決してなかった。今の時代では誰れしもが、影は紫であるなど考えるものがなくなったからいいが、全く私は、その頃情けなく思った事である。しかし私はその紫色が癪《しゃく》にも障《さわ》ったので、見えもしない物の影を紫になど頼まれても描いてやるものかという気になってしまった。
だから、その頃の古ぼけた私の習作を今出して見ると全く驚くべく真黒な色で塗られている。
セザンヌやゴーグの感染時代には、素描の確実な画家や林檎《りんご》を林檎と見せる画家は、殆《ほと》んどこの世から一時姿を消さねばならなかった。消えてなくなれと皆もいうし、本人も全く第一、絵でめしさえ食って行ければ、先ず何んとぼろくそに叱《しか》られても、多少の楽しみはあって、生きては行かれるけれども、食えない弱味があるからには、全く消えてなくなるより他に道がなさそうに思えてくるのである。相当のよい素質の画家が、その頃やむをえず死んでしまったであろうかも知れないと私はひそかに考えている。
あるいは童心と無邪気と稚拙とによって描く事がいい事だと、誰れかが、あるいは電報通信社からか、通知があったりすると、相当永い年月を技巧の習練や調子のお稽古《けいこ》できたえ上げた腕前をば、その日からさっぱりと引下げに取りかかったりする傾向もないとはいえない。またそんな時代に一人上等の腕前を発揮していたりすると、何か、よほど汚なきものの存在ででもあるかの如くぼろくそに叱られつづけたりなどする事もあるので、多少気の強い画家であっても、全くそのうちには気が悪くなって行くらしいのである。
折角花道から、苦労しながら仁木《にき》弾正《だんじょう》がせり上って見ても、毎日毎日大根|引下《ひきさが》れ、と叫ばれて見ては、あまりいい気はしないだろう。
あるいは実在を穴のあくほど見つめて描く事でなくては画家でないというと、折角昨日まで鼻唄まじりで陽気なタブローを作り上げていた才人までが、急に一個の林檎を眺めて、涙を流して見たりする事もある。
あるいは、今や時代は野獣である、何がなじっと落着いていては画家に非ずと勇気づけられたりすると、何が何だかよくはわからないながらも、虎は何処《どこ》だと叫びながら、尻をまくって取敢《とりあ》えず飛び出して見たりする。
君々、虎は後ろですよと注意されて喫驚《びっくり》して見たりする事もないとはいえない。あるいはじっと坐っていたい温厚な人が尻をたたかれて、妙に浮き出して見たり、大体|喧嘩《けんか》、口論、大騒動は嫌なのだが、お隣りもやり出したので、やむをえず煮え切らない喧嘩を吹きかけつつ、神経衰弱に陥って見たり、飲めないのに飲んで嘔吐《おうと》して見たり、その他いろいろ様々とやって見る。しかし、要するに皆その人柄相当の事でさえあれば見ていても心持ちはいいけれども、柄にない事をうっかりやらされていたりする事は甚だ気の毒に見えるものである。
太い眉《まゆ》を持った女が、なお眉へ彩色を施して、何かびっくりしたような眉を作って電車に乗っていたりする。しかしその心根は皆、日本をよくしよう、自分の芸術をよくしようといういじらしい願いから起る事だから、私はその心根に対して尊敬と同情を持たねばならぬであろうと考える。ただ少し知慧《ちえ》と剛情という意地の不足が気にかかる。
底本:「小出楢重随筆集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年8月17日第1刷発行
「小出楢重全文集」五月書房
1981(昭和56)年9月10日発行
底本の親本:「めでたき風景」創元社
1930(昭和5)年5月5日発行
※オリジナルの「めでたき風景」に収録された作品を、まず「小出楢重随筆集」からとりました。(めでたき風景、大阪弁雑談、春の彼岸とたこめがね、春眠雑談、グロテスク、入湯戯画、蟋蟀の箱、上方近代雑景、観劇漫談、芦屋風景、煙管、大和魂の衰弱、蛸の足、もっさりする漫談、亀の随筆、祭礼記、下手もの漫談、西洋館漫歩、画室の閑談、虎)
続いて、「小出楢重全文集」で不足分を補いました。(白光と毒素、主として女の顔、旅の断片、かんぴょう、大和の記憶、去年のこと、歪んだ寝顔、迷惑なる奇蹟、酒がのめない話、因果の種、あまり美しくない話、嫌い、五月の風景、夏は自動車、芝居見物、見た夢、閑談一年、夏の都市風景、瀧、池、花火、盛夏雑筆、秋の顔、迷信、ノスタルジー、洋画ではなぜ裸体画をかくか、奈良風景、ややこしき漫筆、展覧会案内屋、新調漫談、静物画雑考、近代洋画家の生活断片、現代美人風景)
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※「一ケ月」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本のママにしました。
※「モッツストラッセ55」の「55」は、底本では縦中横となっています。
※「喧《やか》ましゅうて寝られんやないか[#ましゅうて寝られんやないか」に傍点]」の「喧」に、親本はルビではなく傍点が付しています。
入力:小林繁雄
校正:米田進
2002年12月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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