などは最も代表的のものと思う。私はいつも、茂左衛門《もざえもん》橋から、あるいは豊国橋の上からこの府庁の円屋根を眺める事を重大な楽しみの一つとしている。殊に豊国橋から見ると、その両岸に、まだ錦絵《にしきえ》時代の倉と家があり、一本の松が右岸の家の庭から丁度《ちょうど》円屋根の右手へ聳《そび》え立ち甚《はなは》だよき構図を作っているのである。ところが最近、その松が枯れてしまい今は骨のみ立っていて真《まこ》とに淋しくなってしまった。そしてその府庁舎は空家《あきや》となり、この先き、この風景はどんな事になって行くか、私は心細い。
 私は支那料理食べるためにのみ本田町|辺《あた》りへ出かけるが、思う。天華《てんか》クラブや天仙閣《てんせんかく》のも支那の、そのかど口から見る家の眺めを私は愛している。殊に天華クラブの前庭に腰をおろすとそこは日本ではなく西洋でもなく、支那でもない一種混雑した情景が漂い、私の心を欧洲航路の船室へ運んで行ってくれる。
 今は空家となっているらしいが板屋《いたや》橋の南側には住友《すみとも》邸の西洋館がある。その附近は大阪の中心地でありながら今なおかなりの閑静な場所であり、昼間でさえ猫の子を捨てに行くには都合のよい場所である。私の幼時トンボ釣りの修業場でもあった。その白き土塀《どべい》の中には西洋らしく、ゴムの大樹が繁《しげ》っている。その中のオークルジョスや青緑のペンキか何かが塗られた古風な木造の洋館がトンボ釣りの私の心をいたく刺戟《しげき》したものであった。その建物の内部を私は知らないが私は今も時々その辺りを散歩する時、こんな人気《ひとけ》のない家と場所が混雑せる長堀《ながぼり》橋のちょっと東に存在する奇妙さを面白く思う。そしてこの奇《く》しき家の内部を知るものはただ永久に、蜘蛛《くも》と鼠《ねずみ》とだけかも知れないわけである事を惜《おし》むのである。

 それから、私は心斎橋《しんさいばし》を散歩して二つの古めかしき時計台を眺める事が出来る。その西側のものはかなりの修繕を加えた様子だが、東側のものは殆《ほと》んど昔の俤《おもかげ》をそのままに保ちつつ人々に存在を忘れられつつ聳《そび》えている。私はこの時計台とその洋館をいつも立ち止って観賞するのである。赤い煉瓦《れんが》づくりであり二階の両側にはブロンズの人像も決して拙《まず》いものではない。時計台の上には美しき笠がありその周囲にはシャンデリヤの如くレースの如き美しき装飾が施されている。時計の文字もまた古風であり、古めかしき音によって今なお、時を知らせつつある。
 私の子供の時分には、大阪に二つの高塔があった、これは天王寺五重の塔とは違って、当時のハイカラな洋風の塔であった、一方は難波《なんば》にあって五階であり、一方は北の梅田|辺《あた》りと記憶するが九階のものだった。九階は白き木造で聳《そび》え五階は八角柱であり、白と黒とのだんだん染めであったと思う。私は二つとも昇《のぼ》って見た事を夢の如く思い起す事が出来る。

 つい二、三日前、バスの中である老人の大工がこの五階について語り合っていた、昔はもっさりした[#「もっさりした」に傍点]ものをこさえたもんや、あの南の五階はお前、八角のといいかかった時タクシと市電が衝突の混雑を発見して大工は話頭を転じてしまったため、その由来を聞く事が出来なかったのを私は頗《すこぶ》る残念に思った。
 消滅した建物では、堺筋の南方今の新世界の辺りかと思うが、多分それは商業クラブ[#「商業クラブ」に傍点]とか何んとか呼ばれた処の円屋根を持った白い建物があった。堺筋に立って南を見ると、必ずこの建物を望み得た事を記憶する。
 円屋根といえば私は先きに述べた処の旧府庁舎の円屋根を愛する。大阪最初の記念すべき洋館であり、ある西洋人の設計になったものだと聞くが詳細の事を知らない。二、三年前の院展がここで開催された時、私は這入《はい》って見たがかなり暗くて、不気味だった、殊に円屋根の内部は階下から見上げる事が出来るようになっていた。二階の床には円屋根と同じ直径の穴があり、古めかしき手摺《てす》りがあり、その穴からヨカナアンの首が現れそうな気がした。その他まだまだこの時代の建築を探せばかなり出て来そうであるが、なお私は神戸の居留地と山手に散在する処の古き洋館に頗る愛着を感ずるものの多くを発見しているのであるが長くなるので神戸は略する。
 ただそれらは殆んどバラック風で植民地的であるが故に、如何に時代の変遷の中途に位する処の記念すべきものであり特殊の面白さを持っているものであるにしても、永久に住む事が不可能な都合に出来上っているために、だんだんそれらのものはこの世から消滅して行くであろうけれども、私はその代表的のあるものだけは、せめてこの時代の記念塔として保護し保存したいものだと思っている。

 近来大阪の都市風景は日々に改まりつつあり、新しき時代の構図を私は中之島を中心として、現れつつあるのを喜ぶけれども、同時に古き大阪のなつかしき情景が消滅してしまうのを惜むものである。
 私は本当の都市の美しさというものは汚いものを取り捨て、定規《じょうぎ》で予定通りに新しく造り上げた処にあるものでなく、幾代も幾代もの人間の心と力と必要とが重なり重《かさな》って、古きものの上に新しきものが積み重ねられて行く処に新開地ではない処の落着きとさびがある処の、掬《すく》い切れない味ある都市の美しさが現れて行くのだと思っている。
 私はそんな町を眺めながら味わいながら散歩するのが好きだ。

   近代洋画家の生活断片

 日本人は昔から芸術家を尊敬するところの高尚なる気風を持つ国民である。その代りややもすると芸術家は仙人か神様あがりの何者かである如く思われたりもする。めしなどは食わないものの如く、生殖器など持たない清潔な偶像とあがめられる。結構だが近頃はおいおいとそれが迷惑ともなりつつあるようでもある。ことに近代では神様や仙人そのものの価値と人気が低下しつつあるようだからなおさらでもある。
 だいたい芸術家のその作品はいわば自分が楽しんだところの糟みたような[#「みたような」は底本では「みたいなような」]ものだから、それを売ろうというのは虫が良過ぎるという説をなすものさえたまにはある。まったくのところ芸術家は大金持ちであるか、臓腑なきものであるかであるとすれば、その説もいいけれども舌があり胃腑を持ち、その上に妻子を携え、仕事に愛着を持てば糟だといって捨ててしまうには忍びないだろう。生まれた子供は皆これ楽しんだ糟だからことごとく殺してしまってもいいとはいえない。
 私は経済学者でもなく実業家でもないので、現代日本はどんなに貧乏か、不景気か知らないけれども、あまり景気がいいという評判だけは聞かされていない。その時代に芸術家志望者、油絵制作希望者は素晴らしい勢いで増加しつつあるのは不思議な現象だ。毎年の二科帝展等の出品搬入数を見ても驚くべき数を示している。これだけの胃と生殖器を持てる神様の出現は、一種の不安なしでは眺めていられない気がする。
 すなわち日本画の世界の如くあるいはフランスの如く、画商人というものがあり、鑑賞家への仲介すべき高砂屋があり、高砂屋によって市価が生み出され、完全に商業化された組織があって、しかもなお神様は貧乏を常識としているのだが、それらの組織がなく、完全なる高砂屋なく、愛好家と神様との直接行動であっては、まったくもって神様も努力を要することである。

 ある愛好家は、絵は欲しいと思っても展覧会で名を出して買うことを怖れるという話を聞いたことがあった。それは誰それは油絵の理解者であり、金があると伝わると、八百よろずの神々がその一家へ参集してくるというのだ。
 さて、これが高砂屋の参集ならば片っぱしから謝絶しても失礼ではないが、何しろ皆神経を鋭がらせた、芸術的神様の集まりである。失礼にわたってはならない。なかなか以てやりにくいという。しかしながらケチな愛好家でもある。

 しかし、目下東京に二、三の高砂屋が現れて相当の功績を挙げている様子だと聞くが、まだ画界全般にわたっては、なんらの勢力を持たない小さな存在に過ぎない。この、組織不備の間にあって、つい起こりやすいのはいかさま的高砂屋である。資本なくて善人の神様を油揚げか何かで欺しておき、絵はほしいがどこで何を買ったらよいのか、不案内という愛好家や、少しも油絵などほしいとも思わない金持ちの応接室へ無理矢理に捻じ込むものがあったり、作品を持ち逃げしたりする高砂屋もあるらしい。

 とかく色男には金と力が不足していると古人は嘆じた如く、本当の現代油絵の理解者達にも金不足の階級者がことの外多い。展覧会を一年のうちに何回か眺めておけば、日本現代の油絵からフランス現代にいたるまでことごとく安値に観賞し尽すことが出来る。何も好んでその一枚を家へ持ち帰る必要あらんやといえるだろう。しかしながら時たまそのうちの一枚を買って帰りたいと思って会場を漫歩したとしたら、あの無数にぎっしりと並んだ絵のさてどれがいいのか、悪いのか、われわれの如く毎日絵の世界に暮しているものでもちょっと見当がつきかねるだろうと思う。腹の虫が収まっている時は皆よく見えたり腹が斜めである時は何もかもことごとく汚なく見えたりする。まァ名を知っている画家の描いたものは何となくよく見え、よく了解も出来たりする。知らない人の作品はなかなか記憶へ入って来るものではない。
 時には雑誌や新聞の展覧会評の切抜きを道案内書として、展覧会を眺めて廻る忠実なる鑑賞家も大阪の二科展会場等で時々見受ける。
 まず左様な愛好家が一枚の絵を買うのに迷うのも道理だ。大金持ならばまず番頭か何かに今年の二科の絵は全部買い上げよ[#「上げよ」は底本では「上げよう」]と命じさえすればいいわけだが、一枚を選択するには骨が折れるだろう。

 ところで絵画の価格表を通覧するにまず目下、日常のテーブル、鏡台、蓄音機、コダスコープ、洋服、帽子、靴等に比して、油絵というものは高値だ。一枚の油絵で何がどれだけ買えるかを思うと、まったく現代の絵画はついあとまわしとする傾向が起こってくるかも知れない。
 ある人が展覧会を見に来て、高い価格の絵は上手で安いのは下手なのかと私に訊ねたことがあった。もちろん大阪の会場でのことだ。高いものはよいと、昔から大阪ではいい伝えられているのだから無理もない。何か油絵画家の内閣とか、帝展の大将とかが相談の上、彼の相場は何円彼は何円と決定するのかも知れないとこの人は思っていたらしい。
 もちろん日本画の世界とか、フランスにあっては画商人の多くがその仲間で市価を製造するが、日本の洋画の世界には左様な組織[#「組織」は底本では「組識」]はまだ現れていないので、画家は勝手気ままの思わくだけの価格を自作につけるので画家がヒステリーを起こしている時などは時々非常に高価か、馬鹿に低廉であるかも知れないし、どうせ売れもしない大作だとあきらめるとやけ糞で何万円とつけてみたりするのだ。まったくもって価格がよい絵を示しているわけでもないと私がいったらその人は大いに失望した。
 しかしいかにあてにならぬ価格でも、もう洋画が流行してから明治、大正を過ぎた今日である。何となく画家のうちにもおおよその見当を自分で発見して来た如くである。やはり西洋の画商のしきたりをまねたものと思うが、絵画の号数に応じてその各自の地位、自惚れを考慮に入れて、価格を定めつつある。すなわち一号を何円と定める、一号を仮に一〇円とすると一〇号の大きさの油絵は一〇〇円であり、一号を二〇円と定めると一〇号が二〇〇円になるわけだ。
 さて各自が勝手な市価だが現在では大体において一号五〇円以下では決して売らないという大家もあり、なおそれ以上彼らを眼下に見下ろして俺は国際的の御一人だから一号三〇〇円以下では売らないといったりすることもあるようだが、内実はいかに相なっているかそれは素人にはわからない。しかしまず常識的な現代
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