の人が集り、芸妓《げいぎ》らしい人たちが大勢集り、ぼんぼんといってくれるのがうれしいのと、会のあとでは「のせ」といって何か御馳走《ごちそう》にありつけるのが先ず私の目的だった。
私の父は胃に癌《がん》が出来てからもなお、素人浄るり大会で、忠臣蔵の茶屋場の実演に平右衛門《へいえもん》となって登場した。その時の憐《あわ》れな姿は、むしろ亡霊に近いものだった。私の父は死ぬまで、消極的ではあるが、陽気に遊んでいたかったらしい。
大体、浄るりというものが、何を喋《しゃべ》っているのか、少しも諒解《りょうかい》出来なかったけれども、ただその音律の物悲しいものである事だけが私の心へ流れ込んで来た。
それで今でも、あの太い三味線がでん[#「でん」に傍点]となって、太夫《たゆう》がうーと一言うなると直ぐに浄るりを聞くだけの心がまえが忽《たちま》ちにして私の心に備わるのである。
たった一つ、清潔な教育は施された。それは、心学道話だ。これは、堺筋に道場があり、燭台と、燈心の光以外の燈火はなかった。床の間に忠孝の軸が懸《かか》っていた。近所の医者とか知識あるものたちが、義勇的にここへ現れて、ためになる話をしてくれるのだ。忠臣義士の話を連続的にうまく演じる人もあったと記憶する。何しろ燈心の暗さが心を静めるのと、近所の人がぞろぞろと集るのが訳もなくうれしく、その上帰る時、岩おこしを一つずつ頂戴する事が最後の希望でもあった。
この心学道話は今なお、スピードの堺筋に存在し、心学道話の看板も懸っていると思う。
いも助、くり丸、といって二つの有力な宣伝業である東西屋《とうざいや》があった。今高座に出ている九里丸はその子孫かどうかは知らないが。
この二つの東西屋は各々特色があった。いも助は鳥の尻尾《しっぽ》を立てたる籠《かご》の如き形の笠《かさ》を被《かぶ》り、大きな拍子木《ひょうしぎ》を携帯していた。喋《しゃべ》る時、目を細くして頭を左右に打ち振るのが彼の特長であった。九里丸はきらびやかな殿様風で万事が華やかだった。時には一本歯の塗りの高い下駄を履《は》いて、素晴らしい衣裳で大ぜいが三味線や鐘[#「鐘」は底本では「鉦」]で流して行くのが、私にとっては心の躍る行列だった、私はいつまでも後から従った。ある時、一本歯の九里丸は躓《つまず》いて彼は倒れた。金らんの帽子はそのはずみで飛んでしまい、つるつるの禿頭が私の前へ転《ころ》がったものだ。私は、それ以来九里丸の頭が少し怖ろしくなって、つい、いも助の方へ、なるべく賛助して歩くようになってしまった。そして同じ口上《こうじょう》を幾度でも暗記するまで、ついてあるいた。そして彼の柔かに動く頸《くび》と、細い目を観賞しながら。
とこう書いていると、いくらでも記憶は蘇生《そせい》する。ともかくも、かかるすべてのものは悉《ことごと》く下手《げて》の味あるものばかりである。一つとして、高尚、高貴、上品なものはない。夜店のたべもの、夜店の発明品だ。香具師《やし》がいう如く、あっちにもこっちにもあるというありふれた品物ではない。買って帰るとすぐつぶれるという品でもないといっているが、即ちその品こそ持って帰るとすぐつぶれてしまう処のものであるのだ。
しかしその、変色し、つぶれる、安い処に、愛嬌《あいきょう》と物悲しさを含んでいる。そして下手ものは安く仕上げる必要から勢い手数を極度に省く、その事が偶然にもまた、芸術の方則に合致する事があり、適当な省略法が加えられるのでその結果、高貴なるものの複雑にして鈍きものよりも、単純にして人の心を強く動かすだけの力を偶然にも備えるものである。
現代では人絹《じんけん》というものがある。人絹製の帯や襟巻《えりまき》などに、上等のものよりも数等感心すべきさっぱりとした美しい柄を発見する。そして、幾百円の丸帯など見ると、全く何か、うるさい、不愉快な手数ばかりを感じてしまう事さえある。
狩野《かのう》派末期の高貴なる細工ものよりも、師宣《もろのぶ》の版画に驚嘆すべき強さと美しさが隠されていた如き事も、世の中には常にある事だ。
大体、日本人は、何から何まで本物でなければ承知しないくせ[#「くせ」に傍点]がある。本物もいいが極端になるとその結果、何から何まで本金づくめの本物づくめとなり、指に純金の指環《ゆびわ》、歯に本金の入れ歯を光らせ、正二十円の金貨を帯止めに光らせ、しかも、工芸的価値や模様の美しさなどは顕微鏡で覗《のぞ》いても出て来ない。
西洋の下級な女たちの手にはめられている大げさな指環は、悉《ことごと》くこれ、ガラス玉であり、牛骨と合金で出来上っているのを見た。そしてそれが愛すべく美しい模様|唐草《からくさ》によって包まれている。私は、そのガラスの青さと、合金の金具と、その唐草の美しい連続がどれだけ女を安価で可愛く仕上げているか知れないと思う。そして、私の如き画家が絵に描く肖像も、それらあるがためにどれだけ描くべきモチーフの楽しさが増す事か知れない。
私は世界を美しくするものは何も本金であり本ものの真珠でも、ダイヤモンドでもないと思っている。それは、土であり石ころであり、粘土であり、ガラスであり、一枚の紙であり画布である。ただそれへ人間の心が可愛らしく素直に熱心に働いた処に、あらゆる美しきものが現れるものだと考えている。
何しろ、私は下手《げて》なるものの味をより多く味わい馴《な》れているためか高尚な音楽会も結構だが、夜店の艶歌師《えんかし》の暗《やみ》に消え行く奇怪な声とヴァイオリンに足が止まり、安い散髪屋のガラス絵が欲しくなり、高級にして近づきがたい名妓《めいぎ》よりも、銘酒屋のガラス越しに坐せる美人や女給、バスガアル、人絹、親子|丼《どんぶり》、一銭のカツレツにさえも心安き親愛を感じる事が出来る。
静物画雑考
東洋画ことに支那絵には野菜、果実、草花、器物、等が単独に絵の題材として古くから多く使われている。もちろん、日本絵においてもそうであるが、それらの題材のみを描いた絵に対して特別な名称、例えば山水画、花鳥画といったようなものがなかったように思う。
西洋ではナチュールモルトといっているが、日本では誰が翻訳したものか知らないが静物と呼び馴ら[#「馴ら」は底本では「馴らわ」]されている。まず便利な言葉であるところから近頃は日本画家の間にも通用するようになってしまった。
しかしながら以前は絵に無関係な人がたまたま展覧会など見に来て、しずかものあるいはしずものとは何ですかとよく訊くことがあった。まったく他人にはわけのわからぬ文字かも知れない。しかしもう昭和の御代では、あかの他人でも静物といえば大概あれかと合点する人でこの世は埋まって来ただろう。
「静物は林檎のことと母思い」とはこれもまた誰の作った川柳か私は知らないが、以前はまったく林檎が静物である位皆林檎を描いた時代があった。私の美学校[#「美学校」は底本では「美学」]時代などはその隆盛時代だったとみえて誰しもが申し合わせた如くまず洋画では林檎が一人前に描けたら及第だといっていた。
ところであの林檎という奴はツルツル丸々としていて、私などは一向に昔から描いてみたくならないものだったが、何かしら絵がうまくなるまじないだから位のつもりで私も相当描いてみたことはあるが、正直なところ一度も面白いものだと思ったことは更になかった。
要するに静物画といっても、林檎ばかり描くべきものでもないので、室内にあるすべてのものあらゆるものが絵の題材として選ばれていいのである。
静物画は、自然さからいえばよほど人工的なものである。一つの画面を作るために風景にあっては樹木を構図上の関係からいろいろと並べてみたり、山を移動させたりすることは出来ない。まずありのままの形において写し、構図は人間の方で多少動いてよろしき位置を定めるのであるが、静物にあっては例えば卓上菜果の図を作るに、それらの題材は自由に画家の希望通り並べかえ取りかえることが出来る。その代りなまじっか、自由が利くところにかえって構図上のむつかしさ[#「むつかしさ」は底本では「むずかしさ」]が起こってくる。ああでもなく、こうでもなく、結局あまり細工をやり過ぎて妙な、嫌味な、不自然なごたごたしたものを製造してしまう。
構図は取捨選択が勝手次第であるが題材はその範囲はなはだ狭いものである。風景画の如く広く自然界に向かう如く無尽蔵な題材は得られない。つまり主として室内における仕事である。座右の何物か以外には描くべき何物もないことさえある。ことに下宿屋の二階の四畳半で暮していたりすると茶色の壁と、チャブ台一ツ、火鉢、本箱でおしまいである。いかにマチスでもこの光景を見ては嘆息するだろう。
止むを得ず林檎とバナナを八百屋から買って来てチャブ台へ並べ、古い風呂敷とタオルをピンで壁へ貼りつけて、カーテンのつもりと見做したりする。
こうも苦労してまで、何も室内に興味を持ち静物画を描かねばならぬ必要は決してないので早く道具を持って郊外へでも走ればいいのである。
静物画はいながらにして絵になる世界を製造し得る便利至極なものであるがために、必然な心の動きからぜひ描きたいと思う場合を除いて、ややもすると不精者の怠け細工に使用されがちである。本当は何か風景でもあるいは人体か何か描いてみたいのだが出るのが億劫であり、金はなし、人体を描くには寒く、ストーブの設備もなし、万止むを得ず風呂敷を壁へピンで貼りつけて、西洋館を夢想しようというのだから生き生きした静物画が出来るわけがなさそうである。
あるいは婦人達の洋画展覧会を見るに一番から百番までの目録が大部分草花静物であったりすることがある。何のことはないお花の会である。
静物画はいながらにして出来ることと室内における題材の欠乏と、構図の取捨の勝手が出来る自由さ等によって、どうも嫌味なものが出来やすい。その上に感激性が不足し、必然性を失い、やむを得ず描いた退屈さを現すことが多く、したがっていい静物画ははなはだ少ないものである。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和五年一月)
西洋館漫歩
私の市内散歩に興を添えてくれる一種の建築がある、それは明治の初め頃に建てられたいわゆる西洋館と称せられる処の建物である。それらの建物は概して木造でありペンキが塗られていたり、漆喰《しっくい》であったりして少しも欧洲の古い建築の如き永久的な存在の感じを起させない処の建物ばかりである。でも私たちは子供の時からこれらの西洋館によって外国というものを夢見さされていたものである。ロンドンや巴里《パリ》はこの居留地のような処だとも思っていた。ところでだんだん、どうやらそうでもないらしく思えて来て、とうとう私が巴里へ到着した時、巴里はとても古めかしく荘厳な石の蔵の連続であった。そしてあの居留地の西洋館というものは、ほんのバラックであり、ほんの腰かけのための家である事が判《わか》った。そして川口町の西洋館に似たものはコロンボ、シンガポールにおいて私は見る事が出来た。要するに植民地の西洋館であった訳だといっていいかと思う。
しかしながら、そこには、簡略ながらも、異人が故郷を思う心から、その建物はバラックではあるがその窓、その屋根、その柱、その玄関にあらゆる異人の伝統と趣味による装飾が施され、異人の伝統から出た色彩が施され、その部屋の内部は日本人にとっては合点の行かない処の構造に仕組まれていたりするので、われわれがそれによって異国と異人の心の奇妙さを感じ、その心を知ろうと思わせられ、日本人の見た事もない地球の裏側の世界を偲《しの》ばしめたのである。
それらの影響から、日本の県庁や警察署等もまた、木造の西洋館と変じ、当時の異人の手によって建てられたり、あるいは日本の大工によって模造されたりした事と思う。
それらの西洋風建築は大阪では何んといっても川口町本田あたりの昔の居留地に最も多く、現在もかなり遺《のこ》っている。
川口町では、旧大阪府庁舎
前へ
次へ
全24ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング