べっとりとしてその日は友人にさえも合わす顔がない気がする。
 ことに女が髪結床や美粧院から出て来た時の姿位、飛び上がった感じのするものはない。彼女は何と大変な頭を捧げていることか、凝り固まった耳隠しや光輝ある日本まげを戴いて、目だけ動かしつつ電車道を横切っている。
 その整然と出来上がった頭は、買いたての帽子の比ではない。しかし帽子は凹ましぐせをつければ、先ず四、五年間は愛用出来るが女の頭が本当に自分自身のものとなる頃には、再び美粧院の門をくぐらねばならぬ頃である。
 すると、本当に自分自身のものである間ははなはだわずかな日数だけであろう。
 ある友人は、パリのしゃれものは仕立ておろしの服を直ぐ着用して外出はしないと話したことを記憶する。それは真にさもそうかも知れない。部屋で充分自分のくせをつけてしかる後、彼女の前へ立とうとするであろう。何はともあれ結いたての髪、新調の帽子等みなことごとく相当の不調和さと嫌らしさを備えている。私はそれが何より嫌だ。

   下手《げて》もの漫談

 芸術家が最上の芸術を作ろうとして出来上った手数のかかった、高尚、高貴、高価な品物ではなく、ただ食事のために作った茶碗《ちゃわん》や食卓、酒の壺《つぼ》、絵草紙《えぞうし》や版画の類あるいは手織|木綿《もめん》のきれ類といった如き日常の卑近なるものでありながら、その職人の熟練やその時代の美しい心がけなどがよく現れた結果、芸術家の苦心の作品よりももっと平易で親しみやすい、気取らぬ美しさが偶然にも現れているといった品物に対して、骨董《こっとう》屋は下手《げて》ものと呼んでいるように思う。
 万事上等、高貴、高価なるもの以外は一切手に触れたくないという上品で持ち切る事の出来る人も結構だが、どんな下品、下等なものでも決して構わず眺め、食べ、観賞し、楽しむ事が出来るものもまた、世の中が手広くてかつ、安価で幸福である。そして偶々《たまたま》、上等のものにありついた時は、また、素晴らしく悦《よろこ》ぶ事も出来ようという訳だ。
 私などは上等のものも勿論好きだが、あらゆる下等なものに対してより多くの親しみを感じる事が出来る。それは一つには、私が純粋の大阪の町人に生れ、道頓堀《どうとんぼり》に近く、何んとなく卑近なものにのみ包まれて育ったがために、高貴上等の何物も知らなかったという点もあると思われる。私の心に当時沁み込んだいろいろの教育資料は、悉《ことごと》くこの下手《げて》ものばかりだったといって差支《さしつか》えない。
 学校で一体私は何事を教わったかを忘却したが、この下手《げて》なる教材の多くを私は忘れ得ないのだ。それが一生涯、私の血の中を走っているような気がする。

 例えば父は、浄るりを語っている、母は三味線を弾《ひ》く、夜は夜店を見てあるく。そして、太鼓まんじゅうと、狐《きつね》まんじゅうと、どら焼きを買って帰る、丁稚《でっち》小僧と花合せをして遊ぶ、時々父は私を彼が妾宅《しょうたく》へ連れて行く。その家の戸口には、角行燈《かくあんどん》がかかってあり御貸座敷と記してあった。
 そこでは「ぼんぼん、ええもの買うてあげまよ」といって芸妓《げいぎ》と仲居《なかい》が私を暫くの間、芝居裏の細道をうろうろと何かなしにつれて歩くのだ。そして何か一つ玩具《おもちゃ》を買ってもらう訳だった。やがて父は、さあ帰ろうといって私の手を引くのだ。私はそれが何をしに来たものか、この酒と酒を温める湯と、妙な臭気の立つ処の、しかも何か華かな心を起さしめるこの家が何屋で何をするうちか知らなかったが、それを会得するのには中学程度の知識が必要だったと見え、十五、六歳に及んでうすぼんやりとなる程度、ははん[#「ははん」に傍点]と気がついた。
 しかし、そこで私のたべさされた桃などは、とても家庭でたべるものとは比較にならない上等の品だった。今考えると、水蜜桃らしかった。何しろ口中で甘い汁がどっさりと出て直ちに溶解してしまうのだから素敵《すてき》だ。綺麗《きれい》な鉢に盛られてさアぼんぼんお上りといって出されるのが何よりの楽しみなんだ。それに皆が大変よくしてくれるので、私は幸福な家だと思った。ところがまた妙に大切にしてくれる処が気に食わぬ処もあった。
 それにも一つ、ここへ来ると、あまりに女の人たちが美し過ぎるのと、大礼服を着用しているのと、それらが強い香気を放って、妙に私の心を騒がせるのがきまり悪くて堪《たま》らなかった。それに彼女らは、よってたかって学校でもどこでも、聞かされた事のない会話を喋《しゃべ》るのだ。そして、さアぼんぼん、もう水あげすんだ[#「もう水あげすんだ」に傍点]といって勝手に喜んでいたりするのが、私に諒解《りょうかい》出来ないのだが、何かその臭気や大ぜいの女の色彩や電燈の光が交って私の心をときめかすだけの役には立ったと思う。

 なお、私の家は、先祖代々|一子相伝《いっしそうでん》である花柳《かりゅう》病専門薬を製造していた。天水香というのは自家製の膏薬《こうやく》の名であり、同時に家の屋号の代用として通用した。よその人は父を天水香はんと呼んだ。
 その頃は薬屋が医者の如く、診察しても構わない時世だった。私の家の店頭は朝から、弁当持参のいろいろの男女の客で埋っていた。彼らは何をしに来ているのか、これも私にはわからなかったが、ただ人間というものは、私の店へ来《きた》って順番に父から妙な場所へ膏薬を貼《は》ってもらうものだと信じていた。
 私はこの膏薬の効能書を丁稚《でっち》と共に大声で鉄道唱歌の如く合唱したものだった。即ち、かんそ、よこね、いんきん、たむし、ようばいそう、きりきず、腫物《はれもの》一切女○○のきずといった具合に。
 その頃、私の通った小学校が島之内の真中にあった。集る処のものは多く、宗右衛門町《そえもんちょう》あたりの芸妓の子、役者の子、仲居の子、商人の子らだった。決して、華族様や政治家や学者の子はいなかった。
 ある役者の子供は、まだ昨夜の白粉を耳のうしろに残したままやって来て、時々胸を開《あ》けて見せたりした。覗《のぞ》いて見ると白粉と交って、紅色の沁みが一面に残っていた。何んでも、殺される役なんだ。
 私は、何か、気味の悪い奴だと思うと同時に、私よりも大分えらい子供かとも思って見た。
 宗右衛門町から通って来る娘で、紺地に白ぬきの上《あが》リ藤《ふじ》下《さが》リ藤《ふじ》の大がらの浴衣《ゆかた》を着たのが私を恍惚《こうこつ》とさせたものだ。それが悩ましいためか何かよくわからないながらも、何しろ大変気にかかってしようがなかった。今にこの浴衣の模様を忘れない処を見ると、随分心に銘じたものと見える。
 記憶といえば妙なもので、小学校、中学校で何か一生懸命に試験勉強したけれども、その辛《つら》かった事だけは覚えているが、さて何を記憶しているかと思うと、悉《ことごと》く忘却してしまっている。しかも忘却してどれだけの不便があるかといえば何事もない。何かの必要上、あれは何世紀の出来事だったかを調べるには、簡単に書物は備っている。訳はない。
 さて私たちの心にこげついて根を一生にのこす処のものは、日常のくだらぬ事ばかりであるといっていい。そのくだらぬ事ばかりがなかなか生きている。

 蜻蛉《とんぼ》の羽根と胴体を形づくる処のセルロイド風の物質は、セルロイドよりも味がデリケートに色彩と光沢は七宝細工《しっぽうざいく》の如く美しい。あの紅色の羽根が青空に透ける時、子供の私の心はうれしさに飛び上った。そしてあの胴体の草色と青色のエナメル風の色沢は、油絵の色沢であり、ガラス絵であり、ミニアチュールの価値でもあった。
 私の夏は蜻蛉《とんぼ》釣り以外の何物でもなかった。夕方に捕えた奴をば大切に水を与え、翌朝は別れをおしんで学校へ行くのだ。学校では、蜻蛉の幻影に襲われて先生の話などは心に止まらない。
 ある時、算術の時間中、私は退屈して、蜻蛉が、とりもち[#「とりもち」に傍点]竿《ざお》でたたかれる時の痛さというものについて考えつづけた。竿があの草色のキラキラした頭へ衝《つ》きあたった時は、どれ位いの痛さだろと思ってちょっと頬《ほっ》ぺたを平手で試《た》めして見た。も少し痛いかと思って少し強く叩《たた》いて見たがどうもまだなまぬるかった。とうとう私は夢中になって私の頬《ほお》をぴしゃりと強く打ったものだ。忽《たちま》ち静かな教室の皆の者が私の顔を見た。私は蜻蛉に同情したために放課時間中、教室に一人立たされていた。
 でも、早くあの蜻蛉に会いたくて走って帰ると、蜻蛉は猫に食べられて二、三枚の羽根となって散了していた。私は地団太《じだんだ》踏んで泣いた。とうとう、丁稚《でっち》と番頭につれられて、八丁寺町《はっちょうてらまち》へ大蜻蛉狩りを行った事である。

 最もエロチックにして毒々しき教育のモチーフは、千日前《せんにちまえ》を散歩するとざらに転《ころ》がっていた。私の家が千日前に近い関係上、ひまさえあると誰れかに連れられて私はこの修羅場《しゅらば》を歩きまわった。
 活動写真はまだ発明されていなかったために、そこは、地獄極楽の血なまぐさい生《いき》人形と江州音頭《ごうしゅうおんど》の女手踊りと海女《あま》の飛び込み、曲馬団、頭が人間で胴体が牛だという怪物、猿芝居二輪加《さるしばいにわか》、女浄るり、女|相撲《ずもう》、手品師、ろくろ首の種あかし、等々が並んでいる。中でも私の好きなのは、あくまで白く塗った妖味《ようみ》豊かなろくろ首の女であった。怖《おそ》ろしいのだが、見たいのだ。何かキラキラと光る花かんざしや、金モールの房《ふさ》のある幕の端がだらだらとぶら下って、安い更紗《サラサ》模様のバックが引廻わされている。
 私がもう写生帖を懐中するだけの大人となってからの事だ。私の弟が薬剤師の試験を受けるためにとっておいた受験証をば私は預かっていた。それをその写生帖の一頁へはさんでおいた事をうっかりと忘れて私は、人ごみの中へ立って、ろくろ首を写生した。
 その翌日弟の試験日だ、私はそれを落した事を初めて知ったが、もう千日前の泥道にさような小さいものが存在すべきはずもなかった。弟はとうとう一年間遊んでしまったという、私の大失態がろくろ首から、醸《かも》し出された。
 曲馬団の娘や、女奇術師の顔や、女相撲取りの顔にもろくろ首と共通せる妖気は漂うていた。白粉《おしろい》が強いので二つの眼が真黒の穴とも見えた。殊に曲馬団では、殆《ほと》んど肉シャツ一枚で、乳がその形において現れ、彼女らは皆黒か赤のビロウドの猿股《さるまた》を穿《は》いていた。それが、固く引締った下から太い股《もも》が出ている処に胸のどきつく美しさがあった。それが針金の上で、あるいは空中の高い処であらゆるポーズをして見せるのだから、今でも私はあの芸当を好む。
 それと、私は、曲馬団が吹き鳴らす金色のラッパの音がとても好きなのだ。私はあらゆる音楽の中で、極端にいえばあのラッパの響きを好むといっていいと思う。あの調子の破れたような金属性のかすれ声はエキゾチックな泣き声である。
 私が巴里《パリ》の客舎にいる頃、いつも町|外《はず》れの森の中から、この曲馬団のラッパが毎日響いて、私の帰郷病を昂進《こうしん》させた。私はもし何か、長唄《ながうた》とか清元《きよもと》、歌沢《うたざわ》のお稽古《けいこ》でも出来るようなのんきな時間があったとしたら、私はこのラッパの稽古がして見たい。

 自分の親の醜態はあまり見たくないものだが、私の父は素人浄るりの世界では相当の位置にあったものと見えた。会がある度《た》びに母と共に、私は出かけねばならなかった。
 人目につく高い処へ父が現れるだけでもきまりが悪いのに、その父が女の泣く真似《まね》をして何んともいえない渋面《じゅうめん》を作って悩むのだから、子として全く私はやり切れなかった。で、浄るりの会と聞くと憂鬱《ゆううつ》になった。しかしながら、燭台の焔《ほのお》がほろほろと輝き大勢
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