んでいるか、旅へ逃げるものが多くなった。殊に私らの仲間ではうっかり羽織袴《はおりはかま》でも着用に及び、扇子を持って歩き出そうものなら、それこそ馬鹿|奴《め》と叱られる位の進歩をさえ示して来たのである。ところで、こうなると、せめて金でもあったら、また何んとか工夫もつくが、貧乏であっては正月の三日間位退屈な日はないということになって来た。夏祭などはただの休日という感激のない日となってしまったのである。
私の子供の時分の夏祭は、まだなかなか盛んなものであった。大阪の市中には各所に沢山の氏神《うじがみ》が散在し、それが今もなお七月中にその全部が、日を違えて各々夏祭を行うのである。その氏神を持つ町内の氏子《うじこ》の男女たちは、もう一ケ月も前から揃《そろ》いの衣裳《いしょう》やその趣向の準備について夢中である。当日になると、各町内で所有するところの立派なふとん太鼓[#「ふとん太鼓」に傍点]や地車を引ずり廻るのである。町家は軒へ幔幕《まんまく》を引廻し、家宝の屏風《びょうぶ》を立てて紅毛氈《あかもうせん》を店へ敷きつめ、夕方になると軒に神燈を捧《ささ》げ、行水《ぎょうずい》してから娘も父親も母も[#「母も」は底本にはなし]息子《むすこ》も、丁稚《でっち》、番頭、女中に至るまで、店先きへ吉原《よしわら》の如くめかし込んで並ぶのである。今とちがって、いくら並んでいても町幅が狭い上に、電車とか円タクがこの世へ姿を現わしていなかったから街路は暗く、長閑《のどか》なものであった。
この長閑な町内を、自慢の地車やふとん太鼓が、次から次へと囃《はや》し立て、わいわいとわめきながら通るのである。私などは、この囃子が遠く聞えて来ると胸が躍《おど》ったものである。その地車の後から近所の娘たちがぞろぞろとついて行くところは、まだ何んといっても、徳川期の匂《にお》いを多量に含んでいたものだ。
しかし徳川期の匂いも今考えると徳川期だけれど、当時の私にとっては、決して有がたくも何んともなかった。ただ周囲の様子が尋常でなく興奮しているのと、地車や何かが通るのがうれしかったのだ。
かような騒ぎはうれしかったが、困ることには、私は父の命令によって、いやに儀式ばった挨拶《あいさつ》を来る人たちへ強《し》いられたり、着たくもない妙な仰々《ぎょうぎょう》しい着物を着せられるのであるそれが泣くほど辛《つら》かった。私は何んともいえず気の利《き》かない即ち大阪語でいえばもっさり[#「もっさり」に傍点]とした、しかも上等のきものを着せられ、畳表《たたみおもて》の下駄を履《はか》されるのだ。私は平常のままなら何処《どこ》へでも行けるが、これを着てはもう一歩も恥かしくて外へは出られないので、私は憂鬱に陥るのであった。
すると父は「この罰《ばち》当りめが」と叱りつけた。母は「せっかくこしらえてやったのに、よその子を見て見なはれ、そんなきもの[#「きもの」に傍点]は着てえへんやろがな」といって泣きそうな顔をした。私はその有難さはよくわかるのだが、そのよその子の常のままの姿をどんなに羨《うらや》んだか知れない。
一度、それは日清《にっしん》戦争|凱旋《がいせん》の時である。大阪全市が数日間踊り続けた事があった。その時私はそれこそ妙な縮緬《ちりめん》の衣裳を着せられた。腰には紅白だんだらの帯がぶら下っていたのを覚えている。鼻の先きへは多少の白粉《おしろい》が施され、私の頭の上には蝋燭《ろうそく》の点《とも》った行燈《あんどん》がくくり付けられ、手には団扇を持たされた上、さあ、近所へ行って見せて来いといわれた。私は日清戦争といえばすぐこの時の辛さを思い出す。私は頭へ火を点《とも》しながら団扇を持って隣家の軒下へ立って泣いていた。
この点、私は現代の子供が頗《すこぶ》る新鮮な母親を持ち、青い上衣《うわぎ》一枚で大威張りで飛んで行く明るい自由さを心から幸福だと考える。
それでも、なおこの現代において、私の生れた船場《せんば》や島之内あたりの、最も古風が今に残されているところでは、この夏祭や正月において、私と同じ運命に出会っている子供を時々発見することがある、私は憐《あわ》れに思う。
それはともかくとして、今日有名な天神祭などはこの数多くの夏祭の代表的な一つが辛《かろ》うじて、年中行事として保存されているものである。先ず結構なことだと思う。しかしながら、これは奈良のおん祭の如く京都の祇園《ぎおん》祭の如く、神社の行事として残っているのであって、これがために、世の中全体が踊り出したり、のぼせあがったりするものではないから淋しいと思う。
これに比べると南仏、ニースのカーナバル祭の如きは素晴らしいものである。それこそ終日終夜、全市の老若男女が入り乱れ踊り狂うのだから、あんな愉快な大騒ぎこそ羨ましく思う。そしてその仮装の気が利いて美しく整頓していること、華やかで明るいこと、踊と音楽が子供にまで沁《し》み渡っていること、その大げさなことなど、到底今の日本などでは見られない図である。
とにかく、人間には年に一度くらいは何かの形式において底ぬけの大騒ぎくらいはあってもいいだろうと考える。
今日、大阪の夏祭もやはり行われているのであるが、地車や太鼓の多くは教育資金や衛生組合の費用の不足にあてられ、わずかに祭の形骸《けいがい》だけが平凡な休日となって残されているに過ぎないのである。氏子はその氏神へ参詣《さんけい》する位に過ぎない。息子や娘は参詣すべき神様の御名前も知らないでいる位神様の内容が弱って来た。
その代り子供たちは変なものを着せられたり白粉《おしろい》を鼻先きへ塗られたりする恥かしさから解放されつつある。だが、世は不景気にして常に常の如く静かである。時に示威運動の行列や自動車ポンプのうなり声が、子供の心を引立たしめるかも知れない。
大人も子供も、夏は暑いから、せめては新世界へでも出かけて、剣劇の刃《やいば》の先きからでも冷気を吸うより外に素晴らしいこともなさそうである。剣劇の流行も無理のない勢いだろう。
この衰微しつつある祭礼に代って今日の新しい人間に適当な、しかものぼせ[#「のぼせ」に傍点]上らしめるような騒ぎ方はないものかと私は思う。
新調漫談
人は皆それぞれはなはだよく似合った帽子を選択し被っているので私は常に感服している。誰が教えたというわけでもなく、政府が制度を定めたわけでもなく、各自、身分相応似合いの帽子を被って歩いている。大工、職工、画家、紙くず屋、大臣、不良少年等、皆似合いの帽子を被っている。
では、帽子の種類がどれだけたくさんこの世に存在するのかといえば不思議にもそれはソフトか中折れ帽子位のものである。要するに多少の古びと、その被り方と、ちょっとしたくせのつけ具合によってあらゆる帽相が現れるのではないかと思われる。前上がりと前下がり、あみだ、横被り、中を高くし、あるいは凹まし、あるいはひしゃげてしまい、あるいは几帳面に、あるいはぐしゃぐしゃにつぶす等、種々様々の趣を作り、もって千差万別の人格と相貌とに当てはめて行くところに、人間の大変な神経と注意が払われていると私は思う。
それは神様が人間の顔をすこぶる簡単な二つの目と、一つの鼻と、一つの口位の造作によって、あらゆる人相を現しているのと同じような心がけである。
しかし、中折れやソフトは、形をいかようにも崩すことが出来るけれども、山高帽子やシルクハット等はあらゆる階級、人相へ直に当てはめることが困難である。もちろん、日本では山高は正月と葬式と赤十字社総会において、人は押入れから取りだすけれども、いかにもそれが葬式臭く、総会臭くて、その帰途、ちょっと活動やカフェーへ立ち寄ることがおかしくてたまらない。
だが、フランスでは常に山高帽子を被る男が非常に多い。もちろんもっと以前は現在の中折れと同じ程度に山高を被ったものだそうである。この形正しい山高でも、皆のものことごとくが被ったら、またその被り方を考え、あるいは顔の相形をば山高へ調和させるべく引きずったりすることであろう。したがって山高時代の西洋人は、現在よりも皆儀式ばった顔をしていたに違いない。
もちろん、古いロンドンの名勝写真には、往来の人みな、シルクハットを被って歩いているのをみたことがあるが、随分何かと几帳面でうるさかったであろう。
私がパリへ着いて間のない頃だった。洋服単笥の錠前が損じたので、宿の女中につたえておいた。するとやがて、一人の山高の紳士が私を訪問したので、これは一体何だと思っているとその後から女中が現れて、錠前屋さんですといったことがあった。パリでは、ヴァイオリンを弾く立ちん坊が茶色の山高を被っている。大変意気な形である。そして、衣服は破れ汚れているにかかわらず、カラーだけは白いのをつけているところは、山高の形正しきものへの重要なる調和を保つべき心がけからだろうと思う。
その点日本の田舎の校長が式場に臨む時の山高が意気とは見えない。フロックの背にしわがよっていて、ネクタイがゆがんでいて、顔が多少いびつであったりすることもある。まず大体からいえば、日本人にとっては山高などは似合わない帽子であるが、幸いにも左様な正確な様式のものはようやく衰えつつあることは日本人にとっては何よりのことかも知れない。
要するに、どんな形のものであっても、それを皆のものが被り着なれてくることによって、着こなすだけの工夫が現れてくるものである。したがって買いたての帽子、仕立ておろしの洋服、新調の靴、もらいたての細君位ぎこちなく、自分自身になり切れないものはない。
私の学生時分、人からソフトをもらったことがあった。どんな形にして被ればいいか、まだよく飲み込めていないその夜、浅草千束町の銘酒屋を観賞して廻った。その時障子の中から一人の女が、随分似合わない帽子を被っているわね、と叫んだものだ。私は、私の心の穴をえぐられた心地してびっくりしたことを今に忘れ得ない。しかしながら一目にして観破するところの随分敏感な女の神経に敬服したものだった。
その代わり被り慣れた帽子こそはわが手足でありわが顔、鼻、口である。いかにお粗末であり、汚れていても捨てるに忍びない愛着を生じる。
帽子は西洋から日本人の頭へ渡来したが、散髪もまた渡来せるものの一つであろう。帽子は頭へ戴けばそれでいいが、散髪は自分自分の毛髪をもって製造する性質のものであるから、髪そのものの質が問題になる。西洋人の髪は綿の如く軽く細く柔軟であって、ちぢれている。その髪から起こった散髪の種々なる様式である。
古来日本人の自慢とせる髪は重く、長く、硬直で黒く、房々とせるものである。したがって支那の弁髪や日本髪を結ぶにもっとも適当であった。と同時に散髪し、オールバックにし、耳隠しとし、波を与えちぢらせるには大変な手数と悩みを伴うものである。だがしかし今更ちょんまげへ還元することは出来ないために、勇敢に東洋人はわが毛髪と戦っている。ただ一つ私は最近の断髪において、東洋人の髪が房々として適当ではあるまいかと思っている。
それはともかく戦わせておくこととして、散髪屋から出て来た男や美粧院から飛びだした女達は、皆びっくりした如き表情をしているのを私は感じる。
私自身も、散髪屋から出る時いつもそれを感じて不愉快になる。それでたびたび散髪する気になれない。やむを得ず一カ月一回位は行くが、ことに顔そりは嫌いだ。職人はかみそりを持って、その塩辛い指で私のくちびるを引張り廻すのである。それから頭を洗ってからポマードか何かをこってりとなすりつけ、一糸乱れずてかてかに光らせることである。私の好みでは、一糸乱れている方が心安くていいので、まア簡単にざっとやってくれと注文しても、職人へは一切通じない。彼は黙って一生懸命平手で髪をピッタリと固めてしまう。やがて鏡に映る私の顔が色魔医者の相貌となった時、ヘイどうもお待ち遠さまと彼はいう。私は出てから早速私の頭をハンケチでぬぐいひっかき廻してしまうのだが、でも
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