出しては、立派な説も笑いの種となる事が多い。品格も何もかもを台なしにする事がある。
そこで、今の新らしい大阪人は、全くうっかりとものがいえない時代となっている。だからなるべく若い大阪人は大阪弁を隠そうと努めているようである。ある者は読本の如く、女学生は小説の如くしゃべろうとしている傾向もあるようだ。
ところで標準語も、読本の如く文章で書く事は、先ず記憶さえあれば誰れにも一通りは書けるし、喋《しゃべ》る事も出来るが、一番むずかしいのはその発音、抑揚、節《ふし》といったものである。
君が代が安来節《やすぎぶし》に聞えても困るし、歯切れの悪い弁天小僧も嫌である。
大阪人は大阪弁を、東京人は東京弁を持って生れる。持って生れた言葉が偶然にもその国の標準語であったという事は、何んといっても仕合せな事である。
私の如く大阪弁を発するものが、何かの場合に正しくものをいおうとすると、それは芝居を演じている心持ちが離れない。それもすこぶる拙《まず》いせりふ[#「せりふ」に傍点]である。
自分でせりふの拙さを意識するものだから、ついいうべき事が気遅れして、充分に心が尽せないので腹が立つ。地震で
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