困る。
文団治は高座から、俺《おれ》の話が今時の客に解《わか》るものかといって、客と屡次《しばしば》喧嘩をして、話を途中でやめて引下った事を私は覚えているので、この入墨を見た時、なるほどと思った。
しかし、彼の話は高慢ちきで多少の不愉快さはあったようだが、私はその芸に対する落語家らしい彼の執着と意気に対して、随分愛好していたものだった。近ごろはだんだん落語家がその芸に対する執着を失いつつあるごとく思える。勿論、本当の大阪落語を聴こうとする肝腎《かんじん》の客が消滅しつつあることは重大な淋《さび》しさである。
太陽の光が湯ぶねに落ちている昼ごろ、誰一人客のない、がらんとした風呂で一人、ちゃぶちゃぶと湯を楽しんでいるのは長閑《のどか》なことである。
しかしながら、私はまた夜の仕舞風呂の混雑を愛する。朝風呂の新湯の感触がトゲトゲしいのに反して、仕舞風呂の湯の軟かさは格別である。湯は垢《あか》と幾分かの小僧たちの小便と、塵埃《じんあい》と黴菌《ばいきん》とのポタージュである。穢ないといえば穢ないが、その触感は、朝湯のコンソメよりもすてがたい味を持っている。その混雑は私にとって不愉快だが
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