持ちが生じ、その心持ちのなかに神に遭えるように感じたのでした。けれどそれだけでは少しもキリスト教と特別な関係はありません。私は聖書をドラマとして読み、そしてそれと、私の宗教的経験とを結びつけたのでした。そして私はキリスト教徒となりました。そこに無理と虚偽とがありました。よく熟考してみれば、私の神はエホバとは違います。またキリストのなくてはならない信仰とは違います。キリスト教徒とはいえないようです。このことは私が聖書を約束の書として受け取ろうとするまでは、すなわち宗教的気分がレアルなものとなるまでは私には、重いことではありませんし、気もつきませんでした。しかし私が厳重にならねばならなかった時、私は動揺しました。
私はキリスト教の思想で日々暮らしてはいますが、クリスチァンではありません。私はまだ「わが神よ」といって祈り続けてゆきましょう。そして、私の宗教の世界での歩みをば、未来のものとして祈り求めてゆきましょう。私はこの動揺は、私が宗教のなかで一歩深く、蹈み込んだためと思っています。信仰がレアルなものとしての要求を起こしてきたからと思って失望しません。私はけっしてキリスト教をきらうのでは
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