トはサマリヤの娼婦《しょうふ》にもただちに近づいて説教しました。けれどもし、淫欲の心燃ゆる下根の人間が、ただちに女に近づくのが愛の行為でしょうか、私は隠遁の真の心持ちをまだ知りませんでした。自らに与うる力なくして、他人を傷つける心ばかり起こるようでは、衆群にはいるよりも、衆群を避けるほうが愛ではありますまいか。「私のような者があなたたちと接触しては、あなたたちのためになりません」こういって隠遁するのはいけないのでしょうか? まして触れれば触れるだけ相互の魂を汚すばかりであるときには、「さようなら」を告げるのも正しくないとはいわれないかと思われます。私はトマスの隠遁の心持ちが少しはわかったように思われます。私はこの頃は「さようならを告げる心持ちの根拠」について考えています。万人と万物とを随所随時に愛することのできる自由の境地は私たちの最ものぞむところながら、「造られるもの」がかかる境地に行くまでには強い隠遁の欲求――愛と純潔より生ずる――が起こるべきではありますまいか、キリストの四十日四十夜の荒野の生活、モーゼの三年の隠遁、フランシスの洞窟《どうくつ》のソリチュードなどが思われます。私な
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