さぬようにその白い手に接吻したい心地がいたします。ああどうして近頃の青年には、弱い美しい清らかなものを慈しみ愛する心が乏しいのでしょうか? 「青と白」の終わりには森のなかで桃色のパラソルを持った少女と大学生と恋を語っているのを見て、それを祝し自らは淋しい樹影にかくれて、静かな魂の休息の深いなぐさめを感ずる青年が描かれてありましたが、それを私はたいへん心地よく感じました。けれどその大学生が幼い少女の愛をもてあそび、そしてブルータルな要求にその清らかな心を蹂躙《じゅうりん》したらどうでしょう。私は恐ろしくてなりません。そしてそのような場景を考えねばならないことを、不安にも、苦痛にも感じます。そのようなことを現実として見なければならないことは人生の一つの大きなイーブルではありませんか。「青と白」とのヒーローは詩人的な純潔な音楽的な気品を備え、成長しました。私はツルゲーネフのゼントルフォークのなかにでてくる純潔な青年詩人を思い出しました。その青年は貧しくて破れた服を着ていたけれど、ひるまず天来の快活をもって理想を説き、盛んに議論し自らを空の雲雀《ひばり》や野の百合《ゆり》と比べました。世に芸術
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