動機としています。ゆえにその感動はいつでも動機にならない、エステーティスムスです。私たちにもし一の「願」が起こったといいうる時には、その願は食欲(形式からいえば)のごとく、常住なむしろ非感動的なものでなければなりません。願がそのようになった時に、初めて aneignen された確実なものといえると思います。かかる願は常に動機になります。天香師は時々愛の問題など話している時にあくびをします。私は初めは不愉快で天香師の真実を疑いましたが、後にはむしろ愛が天香師の日常茶飯事(ある意味)で、別にその時限りの感動を生じないほど aneignen されていることを悟りました、日夜働けば肉体は疲れてあくびも出ます。しかもあくびをつきつき愛の実行をしています。私たちと愛につきて語っている時は、天香師にとってはもっとものんきな時ですもの。(私たちには一番愛の起こっている時なのに)私たちは感動すべき出来事を待っています。その出来事は多くは他人の不幸なのに。天香師は感動すべき出来事のなくなることを祈っています。私たちのは享楽で天香師のは祈祷《きとう》です。
 私もしだいに、「本物」と「偽物」とを弁別する眼が
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