うに思います。自分ながら自分の興奮のすき[#「すき」に傍点]が見えてその結果は興奮しないことになります。私はつくづく自分の器量不相応な大げさな感情の高潮のアイテルなことを知りました。力を伴のうた感情だけ起こしたくなりました。これは天香さんにしじゅう接触しているためなのでしょう。
たとえば、
「妹にこれから経済問題にぶっつからせてやろうと思います」などと自分でも悲壮な気持ちになって天香さんに話します。すると具体的な実行の話になります。すると天香さんは「それではぶつからすのではなくて、そっと触れさすのですね」といわれます。そして私は、前に起こした自分の悲壮的な感情などをアイテルに思いつつ帰ります。
そんな目にたびたび出あったので、私はつくづく自分の感情の分不相応なことを知るようになりました。そして自分の器量、実力を省みます。実行的精神を伴なわない興奮は私たちを軽くし、表現の威力を減ずるばかりですね。このようなことをいうのは失礼ですけれど、妹がいつしか「正夫さんのお手紙を読んでいると、私は軽く受け流すような気持ちになります。そのなかに不幸なこと悲しいことが書かれてあっても、そんなに心配す
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