さんが私たちに欠乏しているといわれるのはかかる力のことなのであろうと思います。
キリストや釈迦はかかる力にみちたる天才だったのでしょう。四十日食わずに野にいることは、それ自身宗教の本質とは縁遠いようでも、実際は宗教の本質はかかる力の上でなくては栄えないであろうと思います。ああ思えば、私たちはフランシスの伝記など読むにたえる人間ではありません。薄き衣で寒風に立つときの肉体的苦痛などを考えもせずに、フランシスの生活を心に描くのはすまないことと思います。フランシスの伝記を読む時には、この肉体的苦痛はほとんど読者の頭にないけれど、もし私たちがフランシスをナハフォルゲンすれば、ほとんどこの苦痛だけが意識をみたすでしょう。寒風に凍えつつ私たちは、この苦痛に堪える力だけが自分の宗教生活の全部だとさえも思うでしょう。私たちに力の問題があまり生じないのは、実行的精神の欠けている証拠と思います。天香さんはその隙間を衝《つ》かれたのであろうと思います。
私はこの頃は自分に勇猛心のないことを感じだしました。自分の宗教的情操は、いまだ気分の域を出でず、自己に甘える、アイテルな部分が、おもな部分を占めているよ
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