純な趣味的要素(妙な言葉ですけれど)に眼がつくほど、新しい生活に対して二の足を踏みます。真の祈りの心持ちは隙間《すきま》のない実践的意志から必然に分泌せられるべきものなのに、私たちには、その実践的意志が、まじめになっていません。したがって真実に祈ったことはありません。それゆえに神の姿は私たちの眼には封じられています。
昨日も天香師から宗教は趣味ではないといって、宗教的空気を享楽し、あるいは眺め、究《きわ》めるような態度を難ぜられるのを聞いている時に、私ははげしい叱責を受けているごとくに苦痛を感じました。そしてただ畏れ入って退きました。
謙さんがはるばる訪ねて来て下さって十日間一緒に暮らす間にも、話題はいつもその愛の問題と私たちの態度の気まぐれを省みて、互いに恥じるところに落ちて来ました。時としては二人とも自らの「光の子」と認めて遠い完成の希みに微笑したり、また時としては救われがたきいたずらもののごとくにのみ思われて、悲しくなりました。私は十日の間にも、時々私のわがままから重たいムードになって謙さんも、渋い顔を見せたこともあり、叔父《おじ》、叔母《おば》の見物の案内や、またある先輩の
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