でフランシスを語りつつ弄びます。そのようなところに私たちの一番大きな、直接な間違いがあるようですね。キリストや、釈迦や、親鸞聖人などの托鉢の生活を思い、またその生活をそのままに、今なお乞食のごとくに暮らしている天香師などのそばに行くときに、私はいつもはげしく私の仮虚の愛を指示されて苦しみます。しかも私はまだ天香師をそのままにナハフォルゲンできない心のありさまにありながら、私のすぐそばにかかる愛と犠牲の行者《ぎょうじゃ》を持っているのはどのように不安だか知れません。
 私は少なくとも天香師の前では愛を口にすることだけはさし控えます。「私は少しも愛してはいません」というほうがどれほど安らかか知れません。そして世のなかの、ことに文壇の愛の論者たちが皮肉にさえ感じられます。私は天香師のそばをしばしば逃げ出したくなります。しかもその真実な性格にひきつけられてそれもできません。私は、謙さんにも話したことですが、今心の生活が行きつまっています。どちらにも進まれないような境涯《きょうがい》に座して苦しんでいます。自分のなかのむなしいものや、甘えるものや、また自分の発心《ほっしん》や動機などに根在する不
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