よりもキリストの「マルタよ、マルタよ、なんじ思い煩いて労れたり、されど無くてかなわぬものはただ一つなり」といわれた、その一つのものを得るために一心になるべきだと思います。それがやがて他人を潤おす本になるのだと思われます。私は神を求めてまだ神にあいません。いわんやパンを神にデペンドする強い信仰はありません。だから今はほんとの意味の出家はできません。しかし私の目ざしている境地はフランシスのような生活を実践することです。私はかつて恋を求めている時には、身も世も忘れて熱心でした。そして神を求める今、その熱心が足りないでどうしましょう。カルチュアやマンナーや骨肉の姑息《こそく》な愛(私は父母を愛するのに何の自信もありません)は第二義以下のことです。まず「無くてかなわぬもの」を握らねばなりません。その時私はすべてのものを愛する立場を得るのでしょう。釈迦、キリスト、日蓮などの出家は、両親を愛せぬからではなく、もっと深い愛、実力のある救済を求めたからでありましょう。私の愛は、他人の運命を動かす力なき愛です。親鸞の「心のままに助け取ることありがたき」聖道の愛にすぎません。私は浄土の愛がほしいです。私はコ
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