受の心持ちをあきらめ[#「あきらめ」に傍点]とはいいたくありません。「善きもの」に任せるのはあきらめではありますまい。親鸞聖人の「任受はいかにあせっても、もがいて逃げることのできない仏の慈悲に」任せたのです。彼にあっては打ち克ちがたき運命は彼によきものでした。そこに彼の宗教的意識が感謝に満つることができました。またその任受の生活はさまざまな、人間の積極的な努力をも、また苦痛や悲哀をも、ゆたかに含みうると思います。私は深い豊富な、そして確かな任受の心持ちの、完成した世界観を実感として持つことのできることを理想としています。昔から聖者と呼ばるるほどの人は、そこまで達しられたのではありますまいか。私たちもけっして力を落としますまい。
私は、とはいえ、毎日心のなかに何の幸福もなく、味気ない苦しい暮らし方をいたしているのですよ、私は、どうしても私の家のなかに安住することができません。正夫さんにも申したことですが私はしみじみと出家のねがいを感じます。愛の生活と家族関係とは両立できないと思います。このように抽象的にいってはわかりますまいが、私は親に対する子の悲哀を痛切に感じます。私は愛に徹するため
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