個々のまことなる心の要求を絶対化しようとし、そして生命を調和ある一つの全体としようとするねがいから、私には多元の苦しみがいつも生じます。そして私の生活を調和ある静けさに保ちがたくなります。たとえば愛は真理であることをエルレーベンして、そしていかにして愛に程度を付することができましょう。これだけの程度に愛すれば足りると考えることは私にはできません。ことにキリストや釈迦《しゃか》のような先人を持っている私は、与えらるるものを持ちながら与えずにいるのをシュルドとして感ぜずにはいられません。そしてそれは私のほかの要求を容れないことが多いのです。そして私は私のすることをジャスティファイすることはほとんど一つの行為にもできがたくなります。それは私の動機ばかりについての考えですけれど、私の行為の生む結果まで考えれば私はイグノランスを恐れて何もできません。そして私はこの頃は一つの行為をするときには常にこう思います。「私のすることはよいこととは信じません。賢いこととはなおさら信じません。けれど私はこのことで間違わないにしても、ほかのことで間違わないというのではありませんから、このことをさしていただきます」と。そして神の知恵を祈り求めます。
 愛はたのしいよりも苦しいものですね。私は愛のなかに含まるる犠牲というものをこの頃は深く感じます。そして愛の必ず十字架になることを思わずに、愛を語っていた愚かさを知りました。愛の本質は犠牲です。そして私は、この頃の多くの人々のように、何ものも自分のほしいものを捨てずに人を愛そうとしていたのでした。そしてその結果は何びとをも愛することはできないのでした。愛が十字架になるのはその犠牲の対象は、私たちのわがままならぬ動機よりほしきものを含むからです。はれやかな眺めと自由の空気、居心地よき部屋を得たき願い、善き友、尊き書物、美しき妻を得たき願い――このようなものも愛のための犠牲に供せらるべきものです。そしてそれを拒むならば愛の実行はできないように思われます。神の祭壇にはこれらのものをもひとたび献げなければ聖霊を受け取ることはできないというのは、私はもっともとうなずかれます。そしてそれは十字架でなくて何でしょう。他人の運命を自分の問題とするときにのみ真の愛はあると思います。私は妹をも、お絹さんをも、父母をも、愛することができないのは、私がこの十字架を負
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